坂口䙥子『蕃婦ロポウの話』

それじゃあ、ロポウのノーカンへの初恋は万事終り、可哀想に失恋したね、と私がからかい気味にふざけるとハツエは神妙な面持ちで、そう思うは内地人の心じゃ、内地人という奴は、芋の皮一枚むいたように、すべりのよい面つきばかり最上として、そこへ一点黒いしみでもできたら、もう傷物じゃの、玉に傷だのとあわてふためき、当人は勿論、世の中のものが少し段おちな扱いをしよる。まことに軽薄で、タイヤル人からみるとそういう変りかたは納得いかぬことじゃ、どこに前と後のちがいがあろう。(396頁)

 

帝国日本と台湾・南方 (コレクション 戦争×文学)
 

 

 コレクション戦争と文学18『帝国日本と台湾・南方』所収、坂口䙥子「蕃婦ロポウの話」(1960)を読む。
 霧社事件(1930)から何年経ってのことか、川中島移住後、そこからさらに中原に再嫁した原住民女性ハツエが日本人女性の「私」に語ってきかせる物語。作者が中原に暮らしたのは45年から46年ということなので、時代もそのあたりに設定されているか。
 二人の会話は日本語で行われているようだが、ハツエのことばは恐らく作者の出身地熊本のもので、「私」のことばは標準語で記されている。ハツエの物語りについては、「決してまとまった筋の通ったことばで私に語ったのではなく、私が補い、想像しホンヤクして、一応のことばによる物語のかたちを整えていたようだ」(398頁)と形容される。つまり、「日本語・台湾・タイヤル語をごっちゃにして、しかも早口でせっせとしゃべる」(416頁)ハツエの語りは、「私」の想像で補われ、さらに「ホンヤク」され再構成されて読者に呈示されているということになる。果たしてハツエの声をどの程度「私」が語り得ているのかは定かではないが、二人の女の間の境目は次第におぼろになってゆく。「遠い遠いところへハツエが次第に消えてゆき、唇だけが私の眼前にあって動きひきつるのだ。そしてその唇を開閉しているのが、私なのだ」(416-417頁)
 霧社事件の際に夫とともにひとたび死んだ筈だったロポウは、第二次霧社事件、そして川中島への強制移住とサバイバーとして「餘生」(舞鶴)を送ることになるが、気がついた時にはオットオフの神の前で夫に立てた誓いを破り、「埋めた未来を掘おこし、よろこびかなしみをもやしつくし」(419頁)てしまう。そのロポウの情欲は、同じく情欲にとりつかれ、みだりがわしく涎を流すハツエの口を通して語られると、「私」の体内にも同様にひそめられた情欲をもあばきだす。

 男のなさけをうけておれば、肌はあのように白く輝くものかのオ。ハツエはしなびた黄色い腕を私の前に突だし、首をふってみせた。この通り、オレはだめじゃ、といった。婿どのが戻ってきて、オレの体に露をしたたらせてくれたら、オレもみごと返花さかせるかのオ、おぼつかないのオ、といった。私はまだ三十にはならず、日に焼けながら少しのたるみもない腕の、シミひとつないのをほこりもできず、そっと和服の袖にかくしてひざの上に両手をそろえ、神妙な顔になった。(419頁)

 女三人の声が重なる中で、ロポウが夫のノーカンや日本人巡査の片山三郎とどんな風に抱き合ったかということより、子供の居ないらしい日本人女性の「私」が夫とどんな風に身体を重ねるかの方が、なぜか鮮明に想像される見事なつくりの小説だ。
 ところで、後に夫となるノーカンの姿を眺めているうち、ロポウに初潮が訪れるという描写がある。誰かを男として性的に意識した瞬間、経血が流れ出すという描写は、中国の女性作家・唐穎の小説にも読んだことがある。性的興奮と経血には何の関連も感じたことはないが、女性作家がこう書くというのは、関連があると認識している女性もいるのだろうか? 単に男を意識することで「女になる」というのを経血に代表させているのならそれでよいのだが、何となく気になったので書き留めておく。