李昂『海峡を渡る幽霊』

李昂藤井省三訳)『海峡を渡る幽霊』(白水社、2018年)

海峡を渡る幽霊:李昂短篇集

海峡を渡る幽霊:李昂短篇集

 

  台湾の女性作家、李昂(リー・アン、1952年生)の短篇小説集。収録作品の発表時期は1970年から2005年にまたがり、作風の変遷が窺える。うち5篇はすでに邦訳されているが、人物の名前のルビが台湾語表記になったほか、全面的に改訳されている。

  最初の三篇は『殺夫――鹿城故事』(1983)に収められた連作短篇から選ばれたもの。台湾中部の港町、鹿港をモデルにした架空の町「鹿城」に暮らす女たちの物語だ。

色陽(色陽、1983)

 若い頃に「芸者(藝旦)」をしていた色陽は、王本という金持ちにひかされたものの、家が傾いたために手芸で生計を立てざるをえなくなる。特に端午の節句の草人形や匂い袋、中秋節の灯籠といった季節ものの商いに頼って暮らしていたが、工業化の進展にともない廉価な大量生産の品が出回るようになり、大きな打撃を受ける。
 最後に李素という少女が登場し、男友達に色陽の思い出を語るうち、ふと彼女が芸者であったのだと気づき、めまいに襲われる。遠く自分と切り離されているかのように感じられていた過去が、不意にひたりと迫ってくる瞬間である。

西蓮(西蓮、1983)

 「西方極楽浄土から不老不死の仏の座の蓮華を取って来るという意味」で西蓮と名づけられた娘。母は彼女を身ごもっている時、日本留学中の夫が女と同棲していると知り、単身日本に乗り込んで離婚の手続きを済ませたいう逸話の持ち主だ。
 この話の主役は西蓮やその母ではなく、鹿城の町を飛び交う噂だろう。母娘をめぐって男の噂が囁かれるが、結局何が真実であるのかは確定され得ぬまま、話は次の「水麗」に受け渡される。

水麗(水麗、1983)

 西蓮の級友で、故郷を離れてダンスに打ち込んできた水麗が久々に帰郷する。様々な噂に取り巻かれた西蓮を訪ねた彼女は、しかし別れに際してこう考える。

陳西蓮にはすでに陳西蓮のすべてがあり、彼女は確かにもはや昔の痩せて青白い女学生ではなかったし、確かに苦しい人生を送ったし、鹿城は確かに幾重にも彼女を縛りつけていたのだが、その中にあって陳西蓮には彼女の家庭と子供がすべて揃っていることは、否定のしようもない。それはわたしの現在の名声・地位とどれほどの差があるのだろうか。わたしは辛い思いで家族全員と決裂して飛び出したものの、今では離婚した子供のない中年女にすぎないのだ。(38頁)

 故郷を離れる/留まる、仕事をしている/いない、既婚/未婚、子供がいる/いない、親の介護をする/しない、病気をした/していない、などなど、かつての友人と気持ちが通わなくなる岐路が(特に女性の)人生には幾つもある。ただ、どの道を歩いてもそこで拾えるものはあるし、それを拾ったからといってそれが幸不幸に直結するとも限らない。


 次の作品は十代の頃に書かれた幻想的な小説。

セクシードール(有曲線的娃娃、1970)

 原題を直訳すると「曲線のあるお人形」、つまり豊かな乳房を備えた人形だが、既成の人形を買ってもらえなかった主人公は、古着や粘土で乳房と腰のくびれのある人形をこしらえてみる。そのことを夫に話して聞かせるのだが、その反応は予期と異なって…。
 赤ん坊の口で豊かな乳房を吸いたい、夫の胸に乳房を実らせたいという口唇期的な欲求から、主人公は自分の乳首を含む赤ん坊がほしいと思うようになる。

 自分も母となる能力があり、もはや母の乳房は必要ないことを証明するためには、彼女には子供を一人産む必要があり、それは子供であることだけが必要とされる子供であり、特別な才能や容貌は不要で、彼女の乳房を吸うことができる小さな口、彼女の乳房を握る小さな手さえあればそれで十分だった。彼女は子供であるだけの子供が必要だったのだ。(56頁)

 しかし夫は「まったく君はよく変なことを考えるね」と笑うばかりで、真剣に取りあってくれない。
 母恋いの物語かと思っていると、主人公は黄緑色の瞳の獣を闇の中に幻視するようになり、故郷のサトウキビ畑に満ちるその情欲の目によって快楽と解脱が得られると確信する。
 恐らくこの作品の中には書かれていない背景が色々あって、身を隠すことができるサトウキビ畑のある風景というのは、恐らく中南部の田舎のものなのだろう。そしてそこを離れて二人だけで暮らす夫婦、特に妻は周囲から孤絶している。夫はサトウキビ畑の広がる農村風景に帰る気持ちはさらさらないし、妻が引きずっている原風景をどうやら忘れてしまいたいと思っているようだ。若い女性の性的な幻想という形をとりながら、そこで語られているのは農村から根を抜かれるようにして都会に出てきた人々の不安であるのかもしれない。


 次は政治とセックスを醜聞と憶測、噂を通じて描き出した短篇集『北港香爐人人插』(1997)収録の一篇。表題作のタイトルは「人みな香挿す北港の香炉」、北港媽祖廟は篤く信仰され参拝客が引きも切らないのだが、その線香を供える香炉を女性の下半身に喩えたどぎつい言い回しだ。

花嫁の死化粧(彩妝血祭、1997)

 二二八事件の犠牲者を追悼する一日、事件を直接知らない世代の女性作家は、記念活動の様子を記録しようとするドキュメンタリー監督の招きに応じて会場に向かう。虐殺事件から五十年近くの時を経て、ようやく公開の場での追悼活動が可能になったのだ。そこでは、凄惨な拷問を受けた犠牲者の遺体を、その妻がひとりでくまなく撮影した「死の写真」が初めて公開されるのではと囁かれている。妻は針と糸で夫の遺体を修復したと語り伝えられているが、それが誰なのか、実際にそうした写真が存在するのかは定かではない。
 それと並行して、「死の写真」を撮影したのは彼女かもしれないとされる王媽媽の一日が描かれる。二二八事件に続く白色テロで、夫を新婚の床から奪われた彼女は、今度は忘れ形見の息子の棺を守っている。
 作家にメイクを施すスタイリストをはじめ、若者たちにとってはすでに二二八事件は遠い出来事であり、そこには距離がある。だが、全く関係のないある事件によって、あたかも過去の召喚を受けたかのように二つの時間がつながってしまう。
 さらにもう一つ、死化粧によって「死の写真」の妻と王媽媽の時間は重なる。王媽媽は化粧によって息子を元の姿、生前は母には受け入れることができなかった姿に戻してやるが、息子もある意味では白色テロの性的な犠牲者であったことが明らかになる。


 続く二篇は『看得見的鬼(目に見える幽霊)』(2004)所収の女幽霊の話。幽霊たちは複数の名前のもとに描かれ、特定の個人の物語ではなく、同じ境遇の女たちの物語が提示される。

谷の幽霊(おに)(頂番婆的鬼、2002)

 清朝の頃に殺されたバブザ族女性の幽霊の話。バブザ族は平埔族の一つだが、まだ台湾原住民として公的な認定は受けていない。漢人を父に持つ月珍、オランダ人を父に持つ月珠は妓楼で漢名を与えられ、春をひさいでいたが、漢人によって奪われた自分たちの土地を取り戻したいと思ったために捉えられ、拷問の果てに殺害され、死体を放り出される。
 この過程は伝聞としてかなり省略されているが、身体に加えられた拷問は微に入り細を穿って記される。それだけの拷問を受けたのだからさぞ恐ろしい悪鬼になって蘇ることだろうとの予期に反し、再び世に現れてみればすでに清朝は亡び、仇もとっくに死んでいるという体たらく。恨みを捨てて解脱した彼女たちをことほぐべきか、死んでからもどこまでも利用され尽くす姿を悲しむべきか、曰く言いがたい物語である。

海峡を渡る幽霊(吹竹節的鬼、2004)

 大陸から渡ってきた「漢薬先生」一家の周囲には何やら奇怪なことが起こる。実は隣家の妊婦と口論になり、つい突き飛ばしてしまったところ、女も胎内の子もそれがもとで命を落としており、一家はそのたたりを逃れようと海を渡ってきたのだった。
 やがて幽霊は女同士に憑依して一家の代々の悪事を数えたてるようになり、自分も突き飛ばされたのではなく漢薬先生に身重にもかかわらず強姦されたために死んだのだと、エアセックスの実演つきで語って聞かせるようになる。こうなるともはや幽霊の怨念なのか、女道士の秘められた性欲の発露なのか定かではないが、結局最後には王爺という大陸から迎えられた神の力を借りて、幽霊は送り返される。「大陸のことは大陸に帰し、一度海を渡れば相い関わらず」という結びが含蓄に富む。


 掉尾を飾るのは美食家としても知られる李昂の面目躍如たる作品。

国宴(國宴、2005)

 「洋食を食べない」と噂される元首と、アメリカ育ちの元首夫人が国賓をもてなす際には、いったいどんな料理が供されるのか? これも憶測と噂によって作られた物語。具体的な食材を記さず、縁起の良い文句で構成された料理名は人々の好奇心をそそり、満漢全席を手がかりにありとあらゆる悪食珍味が想像されていた。
 さらに「国劇」こと京劇の現代化や、女幽霊の役柄についての考察を交えたのち、国連から追放され国際的には「国」と認められなくなった「中華民国」の歴史の最後の光芒が「国劇」の舞台と重ねられる。


 個人としての女の物語から始まり、やがて街を飛び交う噂、流言飛語が主役となり、複数形の女の物語が語られた後、最後に国そのものが舞台に上がる。構成の妙、配列の巧みというべきだろう。