エリザ・クバルスカ『クンバカルナの壁』(The Wall of Shadows、2022)

 『海の遊牧民 バジャウ族』でビーチリゾートを訪れる観光客と地元のバジャウ人の経済格差を描いたエリザ・クバルスカ(Eliza Kubarska)による山岳ドキュメンタリー。代理店を介して経済化される登山ツーリズムの現場が映される。アジアンドキュメンタリーズ配信。

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 ヒマラヤのシェルパ、ンガダはエベレストに9回、カンチェンジュンガに2回、チョー・オユーに2回など、多くの登山歴を誇るベテランの山岳ガイドだ。「誇る」といっても、地元のシェルパの人々にしてみれば、記録を打ち立てるためではなく生計のために登攀に同行しているにすぎない。ガイドの依頼がない時期は、ふもとでヤクを飼って暮らしているようだ。老若男女を問わず、山の仕事で現金収入を得ているそうで、妻は初めてベースキャンプ入りしたのは妊娠中、25㎏の荷を負わされたと語る。夫がガイドを引き受ければ、妻と息子も留守の間の家畜の世話を人に頼み、一緒に荷物を担いでベースキャンプに登り、登山者の食事の世話などを引き受ける。女性は背負いかごに布のベルトをつけ、額に引っかけて頭で支える担ぎ方だ。

 息子のダワも山岳ガイドにするより生計の道はないだろうと考えていた彼だが、妻に「医者になれば人を救えるけれど、ガイドになれば自分が山で死ぬかも」と説得される。妻は自分でも絨毯を織って足しにすると言うものの、今は絨毯の買い手も少なく販路を自分で開拓しなければならない。

 クンバカルナ山を聖山と崇めている彼だが、ダワの学費のため、カトマンズの代理店から仕事を受け、御神体である山に足を踏み入れることになる。妻も初めは強く反対するが、結局折れて、安全祈願の儀式を受けた上での登攀に同意する。

 報酬が1万5千ルピーという安さにはとにかく驚かされる。1ネパールルピーは2024年3月のレートで1.1円、米ドルにして0.0075ドル。112ドル程度の仕事だ。ネパールの一人あたりGDPが約1337ドルというから、その12分の1程度の計算か。

 ヘリコプターで村に到着したのは、 ロシアのセルゲイ・ニロフとドミトリー・ゴロフチェンコ、ポーランドのマルチン・トマシェフスキの三人の登山隊だ。歓迎のカターで出迎え、ベースキャンプに同行したところまではよかったが、悪天候で積雪もあり、雪崩も懸念されることからンガダたちシェルパは出発に難色を示す。だが登山家三人は日程の都合からできるだけ早くアタックしたい。ベースキャンプから先までガイドを要求するが、ンガダは苛立ちを隠さない。このあたりからだんだん不穏な調子を帯びてゆく。登山家三人の間でもしっくり行かない部分が見え隠れする。

 ここで止めたら報酬はゼロだと仲間のシェルパになだめられるものの、ンガダはやはり自身の安全を優先してそれ以上の同行を断る決心をする。

 ポーランド人のトマシェフスキには、ダワと同じ16歳の娘がいる。マヤという名前を聞いて、ダワは「ネパールでは〈マヤ〉は〈愛〉という意味だ」とほほ笑む。結局、トマシェフスキは自分の限界を見定めて、アタックには参加しないと他の二人に告げる。7千メートルの高度でクライミングできるほど高地順応の準備ができていないし、自分はほかの二人とは挑戦できる限界のレベルが違う、何より三人がチームとして一体になっていない……。

 クンバカルナの神は、謙虚に自らの限界を知る者は無事に帰してくれるという。山の言葉を知り山に話しかけた三人の男の伝説が挿入され、現実の登山の記録映像でありながら、同時にシェルパの人々の信仰に基づく認識にも沿う形で編集されている。山肌を伝う登山家の腰のカラビナ(?)が鳴る音まで入っており、サウンドは後で加工した部分もあるのだろうが、撮影・録音機材は相当のものを使っている様子。風の音や雪を踏む音に加え、チベット仏教の僧侶が儀式に用いる鈴やでんでん太鼓のような楽器、さらにヤクの首につけられた鈴の音の澄んだ響きに、この山はアタックする目標ではなく、神体と見る感覚が少し分かるような気がした。

 最後の10分間はロシアの二人がアタックに挑戦する映像だ。「登山の記録じゃないよな」「ああ、撮ってるのは人間だ」と撮影チームに言いながら、二人だけで出発する。落石や雪だまりの小規模な崩落と、見ているだけで心臓に悪い。吹雪の中のクライミングビバークの様子も記録されており、撮影にはドローンを使っているようだ。

 やがて、ベースキャンプでは「今登ってたら死んでたな」との声が漏れるほどの吹雪になる。最後は雪のちらつく中、二人の登山家を迎えに向かう一家の姿で終わる。結局この時の登頂は成功せず、いまだ東壁からは攻略されていないという。

 監督のクバルスカの姿は映らないが、二人の下山に際してルートを伝え、5000メートル地点まで迎えに行ってサポートした由。『登山月報』601号に第125回 Mountain World として掲載された池田常道「ジャヌー東壁 18日間のサバイバル」に詳しい。

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