栴檀は卒業の花~楊双子『台湾漫遊鉄道のふたり』(三浦裕子訳、中央公論新社、2023)

 楊双子『台湾漫遊鉄道のふたり』(三浦裕子訳、中央公論新社、2023)
 内地の女性作家・青山千鶴子の台湾紀行が再発見され、楊双子の中訳によって台湾によみがえった――という設定で2020年に刊行された『臺灣漫遊錄』の翻訳。従って、翻訳は架空の日本語原文を再構する試みとなるのだろう。とはいえ戦前の女性作家の文体を模したものではなく、原文の軽やかさを保つことで間口を広げている。国際ブッカー賞受賞で話題だが、軽快な文体と食いしん坊の女二人の駆け引きは、かつての少女小説のパッケージで売り出せば中高生向けにも充分通用するだろう。

 

台湾漫遊鉄道のふたり

「もしもいつか、――もしもの話よ、作家がペンを銃として使うことしか許されない局面にまで帝国がきてしまったら、私はどうしたらいいのかしら? きっとペンを捨てて遁走するわね。もし、どうしても結婚しなければならない日が来たら、髪を落として出家するわ。千鶴さん、私の気持ちがわかる?」

「青山先生なら、きっと本当にやってのけるのでしょうね」

「千鶴さん」

私は大真面目な顔で言った。「私、千鶴さんと友達になりたい」

 青山千鶴子は日本の南進政策に協力するような作品を書くことには抵抗し、台湾の四季を過ごし、旬の食材の台湾料理を味わうことによって国策作家となることから身をかわそうとしている。しかし、その少女期の飢餓感をなお引きずる刹那主義的な胃袋だけでは、植民地台湾の困難な境遇とそこに生きる人々に肉薄することはできない。

 現地の通訳を務めるのは千鶴子と年も近ければ名前も同じ、王千鶴という若い女性。洗練された立ち居振る舞いに教養豊かで、台湾の料理を味わいたいと貪欲に望む千鶴子の希望をたちどころにかなえる。すでに婚約しているという彼女に、婚約者のいる東京に行くのではなく、結婚をやめて自分の郷里の九州に来て、青山の家で暮らせばどうかと千鶴子は提案する。

 気持ちを通い合わせたように思うのもつかの間、千鶴はたちまち能面のような笑みを顔に貼り付け、千鶴子から遠ざかってしまう。何が千鶴を他人行儀にしているのか、無意識に庇護者の役を買って出る千鶴子には理解が及ばない。千鶴の本心と、彼女がどうやって教養と年に似あわぬ世故に長けた一面を身につけたのか、生い立ちの秘密が謎として最後に明かされることになる。

 重要な役割を果たすのが、台中市役所に勤務する美島愛三という若い男。最初に千鶴子を迎えに出て、本島人の生活に詳しいと感心されると、やや間を置いて「わたくしはここの生まれです」と答える。彼は千鶴子がやたらと地元の食べ物に関心を示すのを快く思っていないらしく、それは湾生(台湾生まれの日本人)といえども台湾総督府の下部組織に仕える官吏ゆえの矜持ゆえかと最初は思わせる。しかし、千鶴が通訳を辞して去ってしまい、その代わりに通訳として随行することになった美島は、内地人の植民者意識を無意識に内面化している千鶴子の問題を喝破する。

「この世界で、独りよがりな善意ほど、はた迷惑なものはございません」

 作中には明確に記されていないが、この男は恐らく内地人(日本人)の父と本島人(台湾人)の妻との間に生まれた子なのではないか。日本籍ではあるが、「湾生」のもつ台湾の風土への愛着だけでなく、本島人の感情を自分のものにしているように思われる。

 読み終えて思うのは、戦前の日本の作家の一人称による語りは、日本統治期台湾を描こうとしたのではなく、その時代背景を借りて、現在もなおグルメと観光に消費される台湾の姿をえぐり出すものではないかということだ。それは日本の読者にとって痛烈な一撃であると同時に、日本統治期の建築などをレトロな歴史遺産として記号的に消費する行為への批判でもあり、架空の日本人作家のまなざしを経由して台湾人の主体性を再構築しようとするものなのかもしれない。

 なお、植民者を男性ジェンダー、非植民者を女性ジェンダーで表象する常套から脱し、男性の庇護にからめとられまいとする日本の女性作家が、植民地台湾で心を通わせようとする女性に対しては、庇護を与える立場にあることを疑わないという矛盾が描かれている。

不幸な者はそれだけで他人を傷つける~アッバス・キアロスタミ『桜桃の味』(1997)

死を置き忘れて桑の実を持って帰ったんだ。

 イラクアッバス・キアロスタミ監督『桜桃の味』(طعم گيلاس)。テヘラン郊外を男が車で何かを探す場面から始まる。彼はある「仕事」を着実に遂行してくれる見ず知らずの相手を探しているのだ。

 山の砕石場付近の木の下に、かねて男は穴を掘っていた。明日の明け方にここに来て、二度声をかけてほしい。返事があれば手を貸して穴から引き出し、返事がなければシャベルで土を二〇杯かけてくれ。

 最初に依頼したのはクルド人の青年。クルディスタンを離れ、テヘランで兵役に就いているが、給料は食べて行けるほどではないという。ほぼ少年のような彼は恐怖し、隙を突いて車から飛び降りて逃げる。このあたりはほとんど監禁すれすれで、演出によってはサスペンスにもなり得るだろう。

 二人目に車に乗せたのは、アフガニスタン出身の神学生。イランの学校で学んでいるが、休暇なので友人を訪ねて来たという。その友人は、アフガン戦争を逃れイランにやって来たまま定住していた。神学生は「自殺は罪だ」と説得を試みるが、それが心に響くくらいならこうして助けを求めたりしない。男は自分の事情を語ろうとはしないが、「不幸な人間はそれだけで他人を傷つける。それは罪ではないのか」と反問する。

 最後についにトルコ語話者の老人が了承する。しかし、彼とて好き好んで自殺に手を貸すわけではない。人助けをするならよりよい方法で助けたい、と彼は自分の経験を語る。かつて彼にも、夜更けにロープを準備して家を出たことがあったという。だが木にロープを結ぶところで、桑の実がなっているのに気付き、食べているうちに夜が明けた。登校する子供たちが集まって来て、木を揺すってくれと頼まれ、言われた通りにすると皆桑の実を拾い集めて嬉しそうに去って行った。彼は結局、死を置き忘れて、桑の実を持って帰り、妻と一緒に食べた――老人は繰り返し、世界の美しさを説き、四季折々の果物をどんな母親よりも心をこめて神が用意していることを説き、桜桃の味が恋しくないのかと尋ねる。最後に、トルコ語の詩を聞かせる。「行っても友達、行かずとも友達」

 老人と別れた後、男の目には急に世界が美しく見え始める。なんでもない近所の学校で子供たちが遊ぶ姿、街の風景、赤く沈む夕陽。そして夕陽は最後に一粒の桜桃のように闇に残る。

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 老人が常に死に触れている剥製師だと知った男は、自分の死がついに本当になる予感と不安に同時にとらわれる。

 ある場所が美しく見えるのは、その場を去ることが決まった時だ。この世を去る手はずが整った今、はじめてこの上なく美しい風景を目にすることができる。つまり、いくら説得の言葉を尽くしても、決断がない限り翻意の可能性にはつながらない。

 男が最後には死を穴の中に「置き忘れる」だろうことはたやすく予想がつく。映画としてどうやって結末をつけるのかと思うと、穴に横たわった男の顔が、雷鳴と共に闇に浮かんだり消えたりするカットから、急に粗い画面の朝の風景に切り替わる。

 ここで突如としてメイキング映像に変わり、兵隊が山を走る訓練風景を撮り終えるところが挿入される。男を演じていた俳優も役を終え、煙草に火をつけながらクルーの元に向かう。そしてそのままエンドロールへ、という意外なラストシーンだった。

 男の計画は、こうして人生の中の一コマになり、また日常へと戻ってゆくのだろう。

マルティン・ヴァルツ『キラーコンドーム』(Kondom des Grauens、1996)

 歯の生えたコンドームがペニスを食いちぎるという、ヴァギナ・デンタタそのままのホラー・コメディ。舞台はニューヨークで、主人公のルイージ・マカロニ刑事(ウド・ザメール)はシチリア生まれという設定だが、ドイツ映画で台詞はドイツ語のため、認知的不協和をきたす怪作。

 

 オープニングでは、女子学生に卒業単位と引き換えに性交渉を強要するセクハラ教授がコンドームに性器を食いちぎられる。この部分のプロットだけだとフェミニスト・ホラーのようにも見えるが、女子学生の顔に精液ならぬ血液が浴びせられるカットから分かるように、基本的には去勢恐怖を戯画化したホモソーシャルな映画だ。

 安モーテルではろくに個包装もされていないコンドームを仕入れているのだが、その中に歯の生えた人工生物が紛れこんでいたのである。「使って! 使って!」と言わんばかりに箱から抜け出して、ちょこちょこ歩いてゆくコンドームの造形がかわいい。

 マカロニ刑事は小柄(とはいってもIMDbのプロフィールでは170㎝ということなので、ほかの俳優が男女問わず長身なのだろう)でなで肩、中年男らしい体型だが、巨根の持ち主でゲイ・シーンでは人気者。あちこちで罪を作っている。中でも元同僚のバベットことボブは、警察を辞めてドラァグクイーンになっていた。

 惨劇の舞台となったモーテルに聞き込みに行ったところで、若いセックスワーカーのビリーと名乗る男(Marc Richter)と出会い、しけ込んだ部屋でコンドームに襲われ、マカロニ刑事はペニスの防衛には成功したものの、睾丸を犠牲にする。

 「キラー・コンドーム」の噂はタブロイド紙に載るが、警察は馬鹿馬鹿しいと取り合わない。被害者はゲイ男性と買春男性である上、負傷によって男性性を損なっても格好のネタになるばかりで同情されない(Dickless Dick!)。さらに、一緒にいた女性たちは逆に犯人と間違われて拘留される始末。やがて、保守派の大統領候補がコールガールとお楽しみに耽ろうとしたところで被害に遭うに至り、ようやく警察は真剣に捜査に乗り出す。エイズ・パニックの時代からそう遠くないことを考えると、公開当時は相当な皮肉だっただろう。

 最後には、ソドムやゴモラのような堕落した都市に暮らす人々を罰しようという、狂信的な女の起こした事件であったことが発覚する。生物工学の第一人者を誘拐して人工生物を開発させ、市内に放っていたのだった。

 マカロニ刑事は犯人と対峙し、自分たちもまた神のお造りになったものだと長広舌をふるう。事件解決後、休暇を得た彼はビリーを故郷の母に紹介する(=母にカムアウトする)ことを決意するのだが、クィア映画というには「ゲイはしつこい」「ゲイに好かれたら逃げられない」というホモフォビックな笑いを入れているのが気になるところ。

eco bike coffee movie production『バンドンの若いコーヒー農家』(2023)

 『バンドンの若いコーヒー農家』(A Young Coffee Farmer from Lembang, Bandung)、19分の短編ドキュメンタリー。アジアンドキュメンタリーズ配信。

 インドネシア西ジャワ州バンドゥン周辺のリゾート地レンバンはコーヒーの特産地でもあるという。バトゥ・ロンチェン村でコーヒー農園を経営する青年アッペプ・ヒダヤットのインタビューを中心にコーヒービジネスの一端を描く。

 もともと父が最初にコーヒー栽培を始め、数年前にそれを引き継いだという。映画『珈琲哲学』シリーズに出て来るような湿った山中のコーヒー園だ。品種はティピカ、ティムティム、アテン、シガラル・ウタンの四種。赤く実ったコーヒーを摘み取るのは女性たちで、収穫期には村内だけでなく近隣の村からも人を雇う。茶摘みのような感覚の仕事のようだ。

 山中の畑の小屋で、火を起こして湯を沸かし、自分で豆を挽いてドリップするシーンがたまらない。2012年にコーヒーが導入された当初、農家は豆をそのまま無加工で出荷しており、売るべき先も分からなかった。アッペプは加工し焙煎して出荷するようにし、馴染みのコーヒーショップに卸している。袋に詰めてバイクの後ろにくくりつけ、そのまま街に売りに行くという小規模な商売で、質の高い豆を生産し、味の分かる相手に売るのが肝になるようだ。

 若い妻は看護師で、来年にはバンドゥンに学業を修めに行くため、農園の仕事は手伝えないという。露台に座る夫に、うやうやしくコーヒーを出したり、テンペ炒めを作って、米飯を盛っておかずを載せた皿を差し出したり、しとやかなよきイスラーム教徒の妻であろうと懸命にカメラの前で振る舞っているようなのが感じよくうつる。アッペプ自身も、ビジネス感覚にすぐれたやり手の農園経営者なのだろうが、カメラを意識してか、訥々とした語りがほほえましい。夫婦と夫の父の三人での食事が、どことなくままごとめいて見えるのも、撮影ゆえだろう。若干ぎこちない演技のようなのは、ことによると撮影クルーが動きを指示しているのだろうか。

 英語字幕でYouTubeでも見ることができる。

  • Documentary Film "A Young Coffee Farmer from Lembang, Bandung"youtu.be

★映画『珈琲哲学』シリーズ第三作。

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Vincent Du『タリバンの新しい友』(Taliban's New Friend、2023)

    アルジャジーラ製作のドキュメンタリー。米軍が撤退した後のアフガニスタンに商機を求める中国の企業家たちを取り上げる。回族など中国人イスラーム教徒の投資家が中心かと想像したが、漢人がほとんどのようだ。タイトルだけ見ると、中国人投資家がタリバン政権と手を組んで資金源になっているようだが、商機を狙う人々はいるものの、現実には幾重にも困難があるという話。

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    中国人向けのゲストハウスを開業したライブ配信者は(この人はあれこれ兼業しているらしく主な収入源はよく分からない)、当初こそ治安の問題を感じていなかったものの、街角での強盗事件や爆弾テロの多発に危険を感じるようになる。アフガニスタンでのビジネスは、安全上の問題に加えて、政府間の関係というリスク要因が加わる。中国資金の導入をタリバーン政権は歓迎しているし、中国の投資家も国内市場や社会情勢に危機感を持ち、国内でのビジネス継続に明るい見通しを持っていない。しかし政権の態度は随時変化しうる。今日は許可が下りても、明日も続けてOKだとは限らない。結局ゲストハウスは閉じて帰国せざるを得なくなる。

 

 アフガニスタンを訪れた投資家が異口同音に言うのが、80年代から90年代の中国のようだという感想。改革開放が始まったばかりで、まだ未開発の分野がいくらでもあった時代。アフガニスタン内需を満たすだけの重工業が発展しておらず、国土に眠るとされる鉱物資源も未開発だ。中国資本で荒野に工業団地を建設する計画もある。アフガニスタン人の生活圏とは完全に切り離し、リトル中国にすることが計画されている。案内者は「団地の中はアフガニスタンの法律に従わなくてもいい、中国人の生活様式や慣習を守って暮らせる」とうそぶく。確かに、歌舞音曲は禁止とか、女子教育や女性の就労に制限があるのでは、家族を呼び寄せられないので、本格的に技術者を集めて大規模な開発計画を進める上では、ある程度黙認されることになるのだろう。

    上海から調査に訪れた大学教授は、一帯一路政策での中国人投資家の活動を追っているが、中国人が国外に流出しているというのは、飛び出しているというより、中国に居場所がなく押し出されて海外に進出しているのだと言う。中国側のプッシュ要因はあり、タリバン政権も外資導入のインセンティブはある。かといって、安定した開発と経営が可能かという点では懐疑的だ。

 

    中国のメディア投資家もアフガニスタンに進出している。彼は明らかにタリバンにシンパシーを寄せており、新規メディアを立ち上げて、アフガニスタンのポジティブな面を内外に発信したいと意気込む。米軍の爆撃を受けた村では、家族を失った少年少女に教育資金援助を約束する。どの程度実行可能かはともかくとして、空爆の惨禍に触れての真実の感情ではあろう。とはいうものの、放送局は結局立ちゆかず、規模を縮小してかろうじて事務所の形を維持している。タリバン政権下のアフガニスタンを称える番組であれ、なお息づく文化や人情を取り上げる番組であれ、結局アフガニスタンのポジティブな面を報じる国際放送局は実現されない。

 

    アフガニスタン国内ではいくつかの「テロ組織」が活動しているとされる。恐らく中国政府が最も警戒するのが「東トルキスタン」を関した名称の組織で、中国の資金がそこに流れることだけは何としても阻止したいはずだ。投資に関して様々な青写真は描かれても、政治的不安が拭えない以上、タリバーン政権を利するほど継続して安定的に中国からの投資が集まるかどうかは未知数の様子。

シャーリー・バーコビッツ『誰もいない部屋-生者と死者のはざまで-』( Empty Room - The State of Israel Vs. Irit and Asher、2017)

    『チャイニーズ・クローゼット』から代理出産が気になり、イスラエルのドキュメンタリーを観た。監督はシャーリー・バーコビッツ(Shirly Berkovitz)、アジアンドキュメンタリーズ配信。

 

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  イリットとアッシャーはイスラエルの夫婦。息子は軍人だったが、任務中に事故死してしまった。その報せを聞いた母イリットは、すぐに精子の採取と保存を思いつき、独身だった息子のために実行する。いずれ卵子の提供を受け、息子の子供を育てたいという強い願いからだ。夫妻は代理出産によって生まれた赤ん坊を、自分たちが育てるつもりでいた。

    しかし、精子の使用に関して息子の意思は確認できず、遺言もないことから、精子は病院に保管されたまま、政府の許可なしに授精させることはできない。夫妻は政府を相手取って訴訟を起こす。法的にまずは精子の所有権が問題になるが、これは息子の所有物であり、従って財産と同様に両親に継承権があるという理屈で通せるらしい。問題はその精子から生まれて来る子の福祉だ。どうしても孫が欲しいのなら、精子を必要としている女性に提供してはどうかと勧められる。しかし夫妻はあくまで自分たちの手元で孫を育てたいと主張する。母がいればいつか子供を連れて行ってしまうかもしれないし、外国人と恋をして孫を連れて米国に移住してしまう可能性だって否定できない。息子の子と引き離されるのは耐え難い、どうしても自分たちと共に、親戚に囲まれる中で育てたいのだという。

 

    前例のない事態に裁判は難航する。一度は夫妻の申し立てが通るが、期限まで残り5分というところで政府が上告し、上告は認められる。そのまま3年も引き延ばされたあげく、夫婦の申し立ては、二人に子を養育する能力があるかどうかではなく、子の生物学上の親ではないという理由で退けられることに。

 

    「息子の子を育てたい」「息子の名を残したい」と夫婦は言うが、二人にはまだ娘たちもいるので、孫に会えないというわけではない。あくまで亡き息子の忘れ形見として血を分けた子がほしいのだ。結局許可は下りずじまいなので、誰から卵子の提供を受け、あるいは誰に代理母になってもらうのかという問題は具体化しないまま終わる。姉妹のどちらかが代理出産するつもりだったのだろうか? さらに言うなら、早逝したのが息子ではなく娘だったら、卵子を凍結するという発想は生まれただろうか?

 

    父のアッシャーも軍に在籍し、数々の戦役を経験し、三十年間にわたって国家に奉仕してきたという。息子の命も国に捧げられたのに、なぜ息子の名を残すことが認められないのか――というのが父と、同様に軍事活動で子供を亡くした親たちの言い分。しかし、それを認めるなら、同じように本人の死後に子供をもうけたいと望む親たちの間で、軍人として国家に奉仕した者とそうでない者、あるいは年数の浅い者で、生殖医療へのアクセスに差がつけられてしまうことになる。

 

    技術的に不可能なことであれば諦めるしかないが、なまじ可能であるだけに、法的にどこまで扉を開くか、言い換えればどこで扉を閉ざすかが厳しく問われる。自分の死後、遺言に基づくことなく勝手に生殖細胞が使用され、子供が産まれ(させられ)るというのは強い抵抗を覚えるが、文化的な背景によってはそれが無上の喜びと捉えられもするだろう。生後すぐに両親を失うという可能性はどんな新生児にもゼロではないし、遺腹児として産まれる子もいる。ドナーから精子卵子の提供を受けて代理出産によって産まれる子と、何が違うのかといえば、生まれて来る子供の側からいえば何の差もないだろう。祖父母に育てられる子が実の両親に育てられる子と比べて不幸だともいえないし、生みの親でなく養父母に大切に育てられる子も大勢いる。「なぜそこまでして息子と血のつながった孫を求めるのか」と、「なぜそれを法的に禁じる必要があるのか」を、両面から考えつめてゆけば、イスラエル特有の社会的・文化的背景にたどり着くかもしれないし、個別の例に関しては司法とは別の場で解決に至ることもあるだろう。

崔睿・劉翔『妻消えて』(消失的她、2022)

    マレーシア語かインドネシア語らしい表記の警察署に、中国人の男(朱一龍)が憔悴した様子で駆け込んでくる。妻(黃子琪)が失踪したと訴えるが、「家出だろう」と相手にしてもらえない。彼は中国から妻と休暇でこの島に来ており、あと五日でビザが切れるので、どうしても妻を探したいと言う。

    ところが、男が翌朝目覚めると、隣には見知らぬ女(文詠珊)が寝ており、妻だと言い張る。一緒に撮った写真も、妻のパスポートも、すべてこの女の写真に置き換わっている。男はパニックを起こして警察に訴えるが、妄想性の精神疾患だろうとみなされる。

    タイトルからして妻の失踪をめぐるサスペンスかと思いきや、別人が妻の顔をして寝ており、妻でないといくら訴えても取り合ってもらえないという設定が怖い。

    本当に妻が失踪したのなら、中国大使館に救援を求めるのではないかと思うが、あくまで現地警察に頼るのが不審。出入国時には指紋を採られるのだし、入国時と異なるパスポートで出国しようとしたらゲートで引っかかるだろうから、妻だと言い張る女を連れてまずは中国に帰ればよいのではと思うが、なぜか在留期限ぎりぎりまで妻を探そうとする主人公。そこに敏腕の国際弁護士という若い女性(倪妮)が現れ、彼はなんとかしてもらおうと懇願する。

 

    邪悪な巨大組織の陰謀が渦巻く東南アジアというイメージが利用されているので、さすがに特定の国には設定されない。インド系の言語が併記されているところをみると、マレーシアのイメージだが、ホテルのスタッフはタイ語を話している。クレジットを見ると、三亜をはじめ海南島や南部の民俗村で撮影しているようだ。

 

    登場人物の辻褄の合わない言動は、最後にきちんと回収されて、理屈は通るようになっている。中国映画らしいのは、犯罪者は死刑判決を受けて即時執行され、関係者はそれぞれ何日拘置されたと処分が最後にクレジットされること。ギャンブル依存症の話なのだが、やっていないと言いながらあちこちに嘘をついて借金をし、嘘に嘘を重ねてゆく過程で、「ダメ、絶対」という賭博への姿勢が示される。依存に陥った人の快復より、賭博に手を出す者を悪として描く明快さが求められているのだろう。

 

    大作映画らしい派手なカーチェイスやどんでん返しが楽しめるが、表層的な南洋/東南アジアイメージにはうんざりさせられる。