ウェス・アンダーソン『奇才ヘンリー・シュガーの物語』(Roald Dahl's The Wonderful Story of Henry Sugar、2023)

ロアルド・ダール原作の短篇から四つを短篇映画シリーズにしたもの。邦題は『ヘンリー・シュガーのワンダフルな物語』とも。動きを最小限にした演劇的な構成で、いずれも作家自身が途中で顔を出し、執筆中の書斎から観客に語りかける。

 

『奇才ヘンリー・シュガーの物語』

 書斎でコーヒーとチョコレート、先を思い切り尖らせた鉛筆を半ダース用意し、書き物台を膝に乗せて執筆を開始する作家ロアルド・ダール。彼の語りによってヘンリー・シュガー(仮名)の生涯へと誘われる。

 ヘンリー・シュガー(ベネディクト・カンバーバッチ)は裕福な家の出身で、食うに困らぬ以上にたっぷりと遺産を相続している。しかし妻に分けるのは癪だという理由で独身を貫いている変人。その彼がある日ふと見つけた医師のノートに、透視術の達人の記録を見出す。サーカスの一員として旅回りをしているそのインド人は、ヨーガ行者から修行法を教わってその術を身につけたのだという。ヘンリーもさっそく真似をして、ろうそくの火を見つめて最愛の人物の姿に集中する訓練を始める。特段愛する者のいない彼は、自分の姿を思い浮かべることに専念し、三年半の訓練の後、ついに裏返したトランプの数字と柄を5秒以内に透視する力を身につけた。

 さっそくヘンリーはカジノに赴き、ブラックジャックで大勝ちするが、日々の冥想によってすでに彼は金銭に対する執着を失っていた。バルコニーから札束をばらまいて騒ぎを起こし、警察官に「金を持て余してるなら病院なり孤児院なりに寄付でもしろ、苦労知らずのぼんぼんが!」と叱られた彼は、いたくショックを受ける。

 ロアルド・ダールが依頼されたのは、今は亡きヘンリーの伝記を執筆すること。彼はカジノで稼いだ金でいくつもの病院と孤児院を設立し経営していたのだった。「もう亡くなられたのなら実名でも構わないでしょう」という作家に、ヘンリーの会計士は「ヘンリー・シュガーのままにしてください」と念を押した。

『白鳥』(The Swan)

 これは言いようもなく後味が悪い。原作がダールの残酷童話の最たるものなのだろう。全てをそのまま映像化するのではなく、観客に向けた台詞で説明する舞台劇風の演出で、象徴的な小物で何が起こっているかを示す作り。

 ピーターという少年が近所のいじめっ子につけ狙われ、凄惨な暴行を受けた末、白鳥に変じて空を飛び、母のいる家の前庭に墜落する。

 『シャイニング』の迷路のような高い茅葺きの壁の間をカメラが進んでゆくオープニング。大人の語り手がピーターの身の上に起きたことを示してみせる。途中で彼自身が成人したピーターであると明かされるので、若干の安堵は覚えつつ、最後まで怖くて目が離せない。

 原作は1976年の執筆だが、新聞記事から得た着想を30年間温めていたとのこと。両手両足を縛って線路に放置するとか、柳の木に登らせて枝から跳ぶよう脅し、猟銃で撃つといった子供の残酷性は、戦争で人心の荒廃しきった時期の子供には歯止めとなるものがなかったのかもしれない。

 

『ネズミ捕りの男』(The Rat Catcher)

 ずる賢いネズミの性質を知り抜いたネズミ捕りの男。しかし給油所の仕事では、干し草に出没するはずのネズミがオーツ麦の毒餌をさっぱり食わず、面目丸つぶれとなる。

 ネズミ男はポケットからいつも持ち歩いているネズミとフェレットを取り出し、自分のシャツの中で戦わせてフェレットがネズミを食い殺すところを見せる。続いて、手も足も使わずにネズミを殺せるか賭けようともちかける。思わず1シリング賭けた語り手の目の前で、ネズミと男の対決が始まる……。

 生きた動物の虐待は一切なく、ネズミの人形と、給油所の主人がネズミ役を演じることで処理する安心設計。

 死んだネズミを横目に、赤い唾を吐きながら「ネズミの血くらい何だ、チョコレート工場では俺から買ったネズミの血を原料にしてるんだぞ」と言い放つネズミ男

 彼が去った後、給油所の主人と語り手は、なぜネズミが毒餌にかからなかったのかと考える。干し草の中に何か栄養になるものでもあったのか? 二人の視線の先には行方不明者の捜索ポスターがある。

『毒』(Poison)

 イギリス植民統治下のベンガル。猛毒を持つアマガサヘビが腹の上に這い上がったため、ベッドに横たわったまま身動きが取れなくなった英軍人(ベネディクト・カンバーバッチ)をめぐるドタバタ劇。ベンガル人医師が呼ばれて血清を注射し、クロロフォルムを漏斗でシーツの下に注入して蛇を眠らせようと試みるのだが……。

 ベッドの上で硬直した友人を発見したルームメイトが狂言回しとなって観客に情景を説明する。寝室を中心に演劇的な大道具、またカメラの横移動による場面転換がなされ、アマガサヘビについて作家が書斎から説明を加えるシーンだけが別に挿入される。まっすぐカメラを見る平面的な画面構成は、真上からの俯瞰ショットでも変わらない。

 ベッドに毒蛇が這い込むという熱帯あるある喜劇と思わせて、いったい誰が毒蛇かというツイストに持ってゆく。ヒッチコックも1958年にテレビドラマ化している(Alfred Hitchcock Presents シリーズ)そうだが、Wikipediaのあらすじを見ると、逃げたと思われた蛇が実はまだいたという落ち。ヒッチコック版では舞台をインドに設定する必要はなさそうだが、ウェス・アンダーソン版では、友人の暴言を謝る"I'm sorry."という台詞に対して、医師は植民地インドならではの最後の一言 "You can't be." を残して去る。作家が書斎で書き記した結末は読者の想像に委ねられる。