米谷ふみ子『過越しの祭』

過越しの祭 (岩波現代文庫―文芸)

過越しの祭 (岩波現代文庫―文芸)

 

 1985年発表の「遠来の客」「過越しの祭」の二篇を収録。
 ユダヤアメリカ人作家のアルと結婚してアメリカに暮らす日本人女性・道子の視点から語られる。二人の間には息子が二人いて、上のジョンは高校に入ったばかりの15才、下のケンは13才半。
 「遠来の客」では、最近施設に預けた「脳障害」のケンが、初めて外泊を許されて帰宅する週末の出来事が、「過越しの祭」では題名通りの夫の親戚の集まりに不承不承出席する様子が描かれる。

不条理には絶対に屈してはならないというのが彼女の生涯のモットーであった。だから、彼女は日本を飛び出して来たのだ。というのが彼女の論理である。余りにも論理が飛躍していると言えば言える。でも、こう言えばああ成るほどと解る人もいるだろう。つまり、彼女は、ご尤も、ご尤もとお辞儀をするのが嫌いなので、日本を出て来たという。だから、ずっと昔に、日本がアメリカに戦争で負けたからと言って、アメリカでへいこらすることは、道子がやって来た二十年昔でも、自分が日本を出て来た理由と相矛盾する。夫婦げんかにおいてをやである。だが、時々、勢い余って、その戦争に負けた江戸の敵をアメリカで討っているような結果になることがある。アルが一人でアメリカを背負って立ち、応答に大童ということが起り、哀れになることもあった。

「遠来の客」(49頁)

 こういう主人公だから、夫婦喧嘩の場面は凄まじい。そこまで言ってしまって大丈夫なのか、とはらはらする一方、よくぞ言ってくれたと痛快でもあり、抜き身がぎらぎらするような緊張感があるが、あと一歩、ぎりぎりというところでひらりと引いて鞘に収めるという具合。
 「過越しの祭」では、とんでもなく意地の悪いシルビヤという小姑が登場する。

「まあいいじゃないか。フィリップ叔父さんには会わせてくれよ。もう彼も八十三になるんだからな。君もきっと好きになるような人なんだ」
「あなた、初めて逢うた時、お義姉さんのこともそう言うたわ。そやから、映画に出て来るユダヤ人の綺麗な女優をいろいろ思い浮かべて、クレア・ブルームのような人かしら、それともローレン・バコールのような人かしらと期待してたんよ。豈はからんや、一目見て、もう逃げだそうかと思た。あの時、あなたの眼、節穴やと思いましたわ。それとも、創作やったん?わたしはね、顔が美しいかどうかを言うてんのんではないのんよ。顔の作りが悪うても、心が出るということをいうてんの。シルビヤえらい意地の悪い顔してたもん。小じゅうとめ鬼千匹て日本でいうけど、日本人は小さいから千匹で済むやろけど、シルビヤは巨大な人やから、万匹いうとこやわね。体力を入れるとね、もっとよ。あなたの言うことなんか当になりますかいな」(110頁)

 道子の英語の台詞は全て大阪のことばに翻訳して書かれるが、ねちっこく相手をやりこめる辛辣さがそこはかとないおかしみにくるまれて、描かれている状況は相当に凄まじいのに、何だか吹き出したくなるような箇所が幾つもある。
 聖餐の席で久々にシルビヤと顔を合わせた道子の頭には、これまでに繰り返し受けた仕打ち、二十年来の怨みがぐるぐると渦巻く。その中から静かに浮かび上がって来るのが、外国語の中に足を踏み入れた時の感覚で、それは言葉を理解しない息子に重ねられる。

いつも、知らない所に行って、面識の無い多くの人に会う時、わたしは二重にも三重にも自分の周囲に網を回(めぐ)らし、恰も鶏とか猫が毛を逆立てた時のようになる。この人々は一体どんな人柄なのだろうと、脳の細胞の奥深くに情報を送りこむのに、この逆立てたアンテナが大童になる。これは言葉ではなく、肌の汗腺のようなもので感じるのだった。盛んに脳の中の何かが出たり入ったりし出す。こういう状態は、アメリカに来た時に始まった。言葉が皆目解らないので、本能に頼らねばならない。脳の中の或部分が異常に働き出す。動物の自己防衛の一種なのだろう。二十年来、この第六感のようなものが研ぎ澄まされて来た。英語が解るようになって来ても喋れないケンがいた。十三年の間にわたしのその感覚はいやが上にも鋭くなってしまったようである。(116-117頁)

次第にケンのことを考えていた。今朝、施設に電話してどうしているかを尋ねた。大した問題もないので心配をするなということであった。彼は人が話すことも判らない。モイシェの読んでいるヘブライ語が判らず、わたしには意味をなさないので、頭に血が上っている、こういう状態にケンはいつもいるのだ。前に一度こういう経験をした。丁度、アメリカに来た時がそうだった。そして永年の間に、その感覚を失ってしまっていた。英語が解り出したからである。(126頁)

 「大阪弁のアクセント」のある英語で、夫に怒鳴りつけられても構わず怒鳴り返す主人公の描写の後ではこうした文章にはっとさせられる。