マーク・オコネル『トランスヒューマニズム: 人間強化の欲望から不死の夢まで』(松浦俊輔訳、作品社、2018)

原著は2017年。16頁より二箇所をメモ。

われわれが未来に期待を抱くなら――自分たちに未来のようなものがあると思うなら――それは大部分、われわれが自分たちのマシンを通じて達成するものに依拠している。その意味でトランスヒューマニズムとは、われわれが主流の文化と考えているものの大部分に、さらに言うなら資本主義と呼べそうなものに、すでに内在している傾向を強化することなのだ。

この運動に私が引き寄せられた理由の一つは、時代錯誤的であることの逆説的な力だった。トランスヒューマニズムは、きっぱりとこれからの世界の光景に向かっているように見えているが、私には、人類が未来については徹底した楽観論をとりうると思っていた過去を思わせるように感じられて、ほとんど懐かしくもあった。

 身体(あるいは脳を含む頭部)を冷凍保存して、マインド・アップローディングや新たな肉体(あるいはそれに準ずる)ものを得られる時機を待つとか、現在では「治療」方法のない「障害」を「修繕」するというアイデアは、それらの技術が将来実用化されたとして、その時点の人類が信頼に値することを前提とする。あるいは、自らを閉じ込める肉体から解放され、死のもたらす不安や恐怖から逃れたとして、その世界が生きるに値するという楽観的観測を前提とする。

 もっとも、より短期的に、この世に存在させられたこと自体が苦痛であると感じる場合も、様々な補綴物を用いたり、肉体を変容させることで苦痛が軽減されることは考え得る。近視矯正用眼鏡の存在だけで、生活の利便性が格段に向上し、その分だけ存在そのものの苦痛も緩和されているだろう。とはいえ、眼鏡によって、近視でない人々と同様の「生産性」を求められるという資本主義社会のもたらす苦痛が緩和されるわけではないが。

 

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