ワイルド『サロメ』

サロメ (光文社古典新訳文庫)

サロメ (光文社古典新訳文庫)

 

 平野啓一郎訳の光文社古典新訳文庫で。こんな短い戯曲でどうして一冊なのかと訝しんだが、訳注・訳者あとがき・解説(田中祐介)・「『サロメ』によせて」(宮本亜門)と、三人がかりの本文を超える量の解釈が付される。
 サロメは舞台にその姿を現す前から、一方的に視線を注がれる対象である。若いシリア人は彼女から視線を離すことができず、ヘロディアの近習(彼と恋愛関係にあることが示唆される)からは「災いを招く羽目になるよ」(12頁)と繰り返しとがめられる。ヘロデもあからさまな情欲のこもった視線を彼女に投げかけ、それに辟易したサロメは宴席を離れる。
 だが、ヨカナーンの声を聞きつけ、彼を水溜から連れ出させた時、彼女は視線を投げかける側へと転じる。とはいえ、恐れを抱きつつヨカナーンの近くに進み出た彼女のまなざしは、「私は、あの女に見られることなど望んではいない」(28頁)とはねつけられる。無邪気にヨカナーンの姿を目に映ったままに口に出す彼女は、その行為が自らの母の「眼の欲望」と同じ放恣な淫蕩とみなされることを理解しない。そして、再三の拒絶にもかかわらず、ヨカナーンの唇にキスすることを宣言する。
 ヘロデから踊りを所望されたサロメは初め固辞するが、やがて視線の欲望を引き受けることを決め、その褒美としてヨカナーンの首を得る。
 繰り返し月が描かれるのは、処女神アルテミスにサロメが擬えられるからだろう。サロメの目に映る月は「決して穢れを知らない。他の女神たちみたいに、男のものになったことなんて、一度もない」(19-20頁)処女だが、ヘロデの目には「所構わず、夜の相手を探し求めている色情狂」(36頁)と映る。だが、ヘロデは欲望に囚われた女については理解していても、欲望の何たるかを理解せぬまま初めての衝動に身を任せる少女には想像が及ばない。アルテミスを見てしまったアクタイオンが命を落としたように、サロメを見つめ続けた若いシリア人は自らを刺して死ぬことになる。逆にアルテミスの視線を注がれて永遠の眠りについたエンデュミオンさながらに、ヨカナーンは命のない首となってサロメの接吻を受ける。処女神に視線を向けた者は死ぬ運命にあるが、彼女が視線を投げかける相手は、決して彼女を見つめ返しはしないと確約されている。ここでは視線は一方的であり、互いに絡み合うことはない。
 ヨカナーンの声にそれと知らぬままに欲望を誘い出され、それが欲望であるとも意識せぬままに視線を注ぐ女となったサロメは、その願いの成就と同時に死を与えられる。

 ワイルドはアイルランド出身の英語作家と思っていたが、『サロメ』はフランス語で書かれたものだそうだ。ビアズリー挿絵で知られるのは翌年に刊行された英訳で、ワイルド自身が最終的に手を入れたものらしい。仏語原本と英語版とでは「内容上の大きな異同はなかった」(訳者あとがき、143頁)とのことだが、表現の上ではどの程度隔たりがあるのか気になるところだ。自分の作品の翻訳に手を入れ、あるいは自分で訳すというのは一体どこまで可能なのだろう。仏語版と英語版の二つのバージョンを作るのではなしに、いずれかに忠実な翻訳を作成するということは不可能ではないかという気がする。
 作品の言語世界に関しては、「解説」に次のように示されている。
「劇の舞台となる世界はキリスト誕生前後のユダヤパレスチナ世界で、庶民の日常生活にはアラム語が使われていたとも考えられるが、ギリシア語が通用していたともいえ、ワイルドは『獄中記』において当時のパレスチナバイリンガルでイエスギリシア語を用いていたと想定している。すなわち『サロメ』のフランス語あるいは英語の背後には、ヨカナーンが用いているはずのヘブライ語に加えて、ギリシア語、アラム語などの複数の言語が交錯しているのであり、私たちはフランス語あるいは英語のテクストを、そのような言語の複数の層の重なりとして繊細に読み解かなければならないのである」(161頁)
 訳者もヨカナーンの言葉が兵士たちに理解されない理由を、晦渋な予言の内容にあるばかりではなく、ヘブライ語のせいではないかとの説を呈示している。
 多国籍の合作プロジェクトにはお誂え向きの戯曲であるかもしれない。