王禎和ほか『鹿港からきた男』

 

鹿港(ルーカン)からきた男 (新しい台湾の文学)

鹿港(ルーカン)からきた男 (新しい台湾の文学)

 

  〈新しい台湾の文学〉シリーズのうち、郷土文学作品集にあたる『鹿港(ルーカン)からきた男』(国書刊行会、2001年)。「郷土文学」という用語に関しては巻末の山口守「郷土文学から台湾文学へ」で解説されている。六〇年代から活動する黄春明・王禎和と、七〇年代に登場した王拓・宋沢萊の二世代に属する四人の作品が収められる。
 宋沢萊の「腐乱」を除き、いずれも貧しい登場人物が人に侮られながらも日々の暮らしを続けてゆくさまが描かれる。

  • 黄春明「銅鑼」(鑼/1969/垂水千恵訳)

 銅鑼を叩いて役所の通知や迷子が出たことを町中にふれて回る男・欽公が主人公。スピーカーつきの三輪車に仕事を奪われ、仕方なく節を屈して葬式の手伝いの仲間入りをしようとするが、ある女を手込めにしたとの誤解からのけ者にされる。
 「バカ正直」とあだ名されるほどだから元々いくらか人に軽んじられていたふしはあるのだが、それでも店のつけをためて払わないなどと人に知られるのは恥だと感じる。葬式の手伝いにしても、仲間に気に入られようという一心で死人が出るまじないをしたものの、本当にそのせいで誰かが死ぬのではないかとその夜は良心の呵責にさいなまれる、気の小さな善人だ。
 だが、久々に役場から銅鑼叩きの仕事をもらってはりきるものの、少しでも効果的にと余計な文句を付け加えたのがあだとなり、最後に残されたわずかばかりの体面も無となってしまう。

  • 黄春明「坊やの人形」(兒子的大玩偶/1968/山口守訳)

 侯孝賢ホウ・シャオシェン)監督により1983年に映画化された短篇。2013年の東京国際映画祭でも上映されたが、原文の中文が映画では台湾語のせりふに置き換えられていた。
 若い父親・坤樹は学歴もコネもなく、仕事が見つからずせっかく授かった子供も妻と堕胎の相談をせねばならないほどだった。それが映画館のサンドイッチマンとして雇ってもらえることとなり、子供を産めると知った妻は狂喜する。しかし、親戚からはそんなみっともない仕事は面汚しだとねじ込まれ、扮装して街を歩けばみな広告ではなく坤樹の正体に興味を持つ始末。冷ややかな好奇の目の中を連日歩き続けるのは、身体以上に精神を疲弊させる仕事であった。
 作中で綴られるのは、うっかり妻にやつあたりして気まずくなってしまった彼の一日だが、意識の流れの手法でこれまでの経緯が少しずつ浮かび上がってくる。収録作品の中では、妻とのやりとりのこまやかさと、二人の年が若いこともあり、読後感の爽やかな一篇である。

  • 王拓「金水嬸」(金水嬸/1975/三木直大訳)

 村で小間物の商いを続け、六人の子供を大学に通わせた金水嬸。正直な商売で人にも好かれ、上の息子たちはそれぞれ町で高給取りとなったことで、果報者と羨まれている。
 それがある日、息子にせがまれて投資のための金を工面してやったことから彼女の運命は急転直下、手のひらを返したように近所から冷たい扱いを受けるようになる。
 出世した子供が親の恩を忘れる(その背後にはおおむね町育ちの嫁がいる)というパターンはさながら昼ドラだが、金の貸し借りとなると日頃は「おばさん」「おばさん」と親しく付き合っていたご近所も厳しく取り立てにやってくる、というあたりの筆は読ませる。最後はそれでも懸命に借金を返済しようとする彼女の姿が伝聞として描かれるが、そこに希望を見出すのか押し付けられるところに全てを押し付ける世情の酷薄に絶望を感じるのかは読者に委ねられる。

  • 宋沢萊「腐乱」(抗暴的大貓市——一個臺灣半山政治家族個故事/1987/三木直大訳)

 これは異色。本省人の兄弟が、国民党のスパイなどを務め、汚職にいそしみ、政敵や恋敵を粛清して打猫市のトップに上り詰めるが、身体が内側から腐る奇病に冒される。

やがて彼らは理解した。いずれ役人になるということは人民の敵になることであり、役人は統治者、人民は被統治者なのだ。そして東洋の最古の政治哲学も明確に述べているように、両者の間は必ず隔たったものでなければならないのが道理なのだと。(218頁)

 「打猫」というのは「打狗」こと高雄の諷喩かと思ったが、嘉義県民雄郷がこう呼ばれていたのだそうだ。原住民の発音を日本風に表記すれば「たみお」、中国語の読みで字を当てれば「打猫(だーまお)」というわけか。

  • 王禎和「シャングリラ」(香格里拉/1979/池上貞子訳)

 夫に先立たれた女性のひとり息子が中学受験を迎える。経済的条件から言えば進学は難しいのだが、母は何としても息子の希望をかなえてやろうとする。しかしただでも夫を亡くした女は縁起が悪いと避けられている上、成績優秀な息子への妬みもあり、彼女への風当たりは強い。
 自分より下と思っている者が少しでも報われるのが面白くないという異常な心理が執拗に描写されるが、ここまで露骨に相手をおとしめることは現実ではなかなかないにせよ、ネットの世界だと「他人が自分より楽をする(しているように見える)のは許せない」という意見はしばしば目にするところだ。ほかでもなくまさに私たちの生きている世界がうるわしの「香格里拉」というわけ。
王禎和「鹿港からきた男」(嫁妝一牛車/1966/池上貞子訳)
 難聴の車引きが、鹿港から来たよそ者の簡という男に妻を寝取られる。運の悪いことに、車につけた牛が暴れて子供を踏み殺してしまい、責任を問われた車引きには実刑が科せられる。刑期を終えて帰ってみれば、簡は牛車を一台用意して待っており、そのかわり毎週妻を借り受けるという暗黙の了解が成立したのであった。
 妻が他の男と関係を持っているという、腹を立てることが予期される場面での主人公の反応が何ともおかしい。

やがて、心のなかに一種奇妙な喜びがわいてきた。彼はいつも、阿好はこれ以上ないというほどひどいブスで、自分の一生を台無しにされたと嘆いていた。なのに、その女とこっそり情を通じるような人間が現れた――しかも年下である。結局、阿好はブスでも大した女なのだ。その気持ちがおさまると、何となく簡がにくらしくなってきた。と同時に、あのひどいワキガのことを思い出した。簡はすでに無力になっていた万発の、男としての自尊心を傷つけた。(321-322頁)

 性的魅力に乏しい妻を持ったことで、そうした女しか妻にできない自分が貶められたと感じていたところ、他の男が妻に欲望を向けたことで自分の価値まで上がったような気になる。だが、その男も大した人間でないと思い直し、ようやくここで怒りがわいてくるという流れ。笑い事ではないが思わず笑ってしまう。
 茅盾の「藻を刈る男」も、病気で思うように働けない男が健康な独身男と妻を共有する話だったが、一夫二妻の物語は探したら色々ありそうだ。