桑島道夫編『中国新鋭作家短編小説選 9人の隣人たちの声』

中国新鋭作家短編小説選 9人の隣人たちの声

中国新鋭作家短編小説選 9人の隣人たちの声

 

 桑島道夫編『中国新鋭作家短編小説選 9人の隣人たちの声』(勉誠出版、2012)。主に70年代から八〇年代生まれの若手作家の作品のアンソロジー。人民共和国出身の作家による中国語で書かれた作品が集められているが、朝鮮族の金仁順やチベット人のツェリンノルブの登場人物は、おそらく朝鮮語チベット語で話しているのだろうと思われる。
 2012年9月に法政大学で開催される予定であった日中青年作家会議に併せて編まれた作品集とのことだが、会議そのものは尖閣問題のあおりを受けた形で直前になって中止されている。このときリービ英雄と閻連科の対談も企画されていたそうだが、全て実現されなかった。中国文学はやはり今でも政治と切り離すことができないのだと、まざまざと見せつけられるような思いがある。

  • 徐則臣(大橋義武訳)「この数年ぼくはずっと旅している」(這些年我一直在路上)

 清末の官僚にこんな名前の人物がいても不思議はない気がするが、作者は78年生まれ。
 外出好きで賑やかなことなら何でも好きな妻と、家にこもって書道につとめるのが好きな夫。二人は離婚するが、なぜか別れてから夫は旅を好むようになり、四六時中列車に乗って移動している。やがて車中で、拘禁されている夫に会いに行くという女に遇い、別れてからもまた彼女に会いたいと思うようになる。それぞれうまくゆかない婚姻の後で男女が再会したら関係が生まれそうなものだが、予想を裏切り、男は再び列車で旅を続ける。ほぼ行きずりのような相手に心のたけをぶちまける女に対し、男の方は半ばそれを期待していたにもかかわらず、「あらゆる事柄が、彼の想像したありさまとは違っていた。いま彼らの生活はこんなにも複雑なのだ」と悟り、外に現れかけた感情をまた一つ一つ胸に収める。

  • 周嘉寧(川村昌子訳)「幻覚」(幻覺)

 82年生まれの女性作家による作品は、「この数年ぼくはずっと旅している」と反対に、女が飛行機に乗って大して親しくもない男の家に羽を休めにゆく。舞台はどこか明記されないが、窓の外に立っているガジュマルは福州を連想させる。
 狭い男の家で一つのベッドに休み、当然のように二人はセックスしようとするが、結局完遂されずに終わる。失恋して他の男の部屋に転がり込むというのは、小説の世界ではよくあることだが、現実にはかなり自暴自棄でエキセントリックな行動かもしれない。主人公の女も、自分が望んで得られなかったような関係をこちらの男となら築けるとまでは考えていないようだが、睡眠薬のもたらす幻覚から救い出してもらえるとの淡い期待はあったようにも思える。しかし、疲れ切った彼女の目にも、自分ひとりが孤独なわけではないことが次第に見えてくる。互いに孤独の極限にあり、それを垣間見つつも、結局二人はそれ以上の関わりを持つことはなく、女は彼の部屋を後にする。

  • 葛亮(星野幸代訳)「尹親方の泥人形」(泥人尹)

 78年南京生まれの男性作家による、故郷を舞台にした作品。幼い子供の視点から、文化大革命に翻弄され、改革開放後にはグローバル化と商業化の波を受ける泥人形職人の生涯が描かれる。現代史を一人の人物に投影したスケール感は、「いま、ここ」に限定して個人の内面を描く作品が目立つ中国の若手作家には珍しいように思われる。ほかにどんな作品を書いているのか追ってみたい作家だ。

  • ツェリンノルブ(次仁羅布/Tsering Norbu)(桑島道夫訳)「アメリカ」(阿米利嘎)

 65年ラサ生まれの男性作家。
 語り手は県城からランドゥン村へと向かう公安局員。種牛が毒殺された疑いがあるとの通報を受け、大した問題ではなかろうにと不承不承山道にジープを走らせる。しかし関係者に話を聞いてみると、種牛の所有者ゴンボも容疑者カルマドルジェも、村の中で浮いた存在であり、嫉妬と軽蔑を共に買っている風なのが見えてくる。借金をして誰もが目を見張るようなすばらしい種牛を買うことも、ラサに出稼ぎに行って現金を手にして帰ってくることも、どちらも村では嫉妬の対象になる。努力で財産を築いたとしても、それで嫉妬を買っては村で平和に生活してゆくことはできない。そうした村の不穏な雰囲気の中、ゴンボの牛は死に(ざまみろ!)、鼻つまみ者のカルマドルジェが下手人と目される(ざまみろ!)。村人は仏教に篤く帰依しているので人を傷つけるようなことがあるわけはなく、悪いものはすべて出稼ぎに行った若者が持ち帰って来るのである。
 結局、語り手は調査のあげく、牛は自分で綱を切って逃げ、たまたまそこに生えていた毒草を食んで死んだのだと結論づける。しかし果たして公正に判断できたかどうか、みちみち考えあぐね、夕暮れの道をヘッドランプを点け「こうすれば道に迷わずにすむ」とジープを駆る。もちろん唯一正しい道を示してくれるような便利なランプは存在しない。

  • 魯敏(加藤三由紀訳)「壁の上の父」(牆上的父親)

 73年生まれの女性作家。遺影となって壁に掛かっている父のもと、母と姉妹はさまざまなプレッシャーに抗いながら暮らす。作者自身の16歳で父を失った経験が多かれ少なかれ反映されているようである。
 姉の王薔は28歳、父のいない家族が一発逆転を図るなら自分たちの結婚以外にはないとクールに判断し、自分の価値を最大限に見積もって結婚相手を探している。一方で妹の王薇は万引きの癖があり、食べることに目がなく、食べ吐きを繰り返すようになる。最後には精神科医にかかることになるが、意外にも医師が指摘した問題は王薔の方にあった。
 仲の良い三人家族ではあるが、母と娘の関係は、良好でも険悪でも難しいものだ。

  • 金仁順(水野衛子訳)「トラジ〜桔梗謡〜」

 70年生まれの女性作家。延吉を去ってから、故郷の人々とも関係を絶って暮らしてきた初老の男のもとに、不意に初恋の女性から電話がかかる。会ってみると息子の結婚式への招待だった。帰宅して妻に告げると大変な騒ぎになる。
 どうして結婚後に故郷を離れたのか、具体的な経緯は書かれないが、前後関係ははっきりしないながらも何となく察しがつくような筆致。

  • 李修文(多田麻美訳)「夜中の銃声」(夜半槍聲)

 75年生まれの男性作家。『夜半歌聲』を連想させるタイトルから、ミステリーかはたまたクライム・ノワールかと想像したがさにあらず、一夜にして殺人犯の母となってしまった女性の物語だった。息子はほぼ間違いなく死刑になるのだが、幼い双子の孫を抱えて村で暮らすためには、悲しみにくれてばかりいるわけにもゆかない。
 まったく状況は異なるが、楊佳の一件(イン・リャン(應亮)による映画『我還有話要說(When Night Falls)』も製作されている)を連想した。ある日突然自分や家族が犯罪者になってしまうということ、それは冤罪とは限らず、実際に罪を犯すところまで追い込まれてしまうことである。この「夜中の銃声」の息子の場合、経過だけを読めば殺人に至るまでには幾度も引き返す道があったように思われるが、本人にとってはもう取り返しのつかないところに追い詰められていたのだろう。

  • 張悦然(杉村安幾子訳)「狼さん いま何時」(老狼老狼幾點了)

 82年生まれの女性作家。時間に関する寓話はエンデの『モモ』がすでにあるから、難しいテーマだろう。物語の構造としては、男が女を監禁して殺そうとするのが第一層、男が女に語る「きみは忘れちゃっている」「きみの物語」が第二層という入れ子になっている。この第二層が時間の寓話に相当するが、寓意に満ちているようでありながら、全体としてはストーカーが女を監禁し、なぜ相手を殺すのかを語って聞かせるわけで、狂人のたわごととも取れるようになっている。真実を語る者は狂っているように見える、ということもあるが、この作品の語り手はどうやらホンモノらしい。こういう設定にすると寓意が弱められてしまうように感じるが、かといってむき出しの寓話部分のみでは作品として成立させづらいということか。

  • 李浩(小笠原淳訳)「五人の国王とその領土」(五個國王和各自的疆土)

 71年生まれの男性作家。玉座から追い落とされる危険と隣り合わせの、何でも好きなようにできる権力がありながら不安に苛まれる王たちの物語。簡潔な文体で淡々と出来事が記され、架空の史書稗史が引用される。
 囚われたかつての王が、鶏に自分のものだった州や家臣、愛妾の名前をつけて育てるが、現在の王にそれを一羽ずつ奪われるというくだりに映画『ドッグヴィル』を連想する。主人公がわずかな給料から貯めたお金で一つずつ瀬戸物の人形を買うが、村の女に最後の一つまで叩き割られてしまう。最後に村の女は、自分が瀬戸物を壊したのと同じようにして、子供たちを一人ずつ目の前で殺害されることになる。もっとも、鶏を奪われた王にはどうやら報復の機会は巡ってこなかったようであるが。