ナム・リー『ボート』

ボート (新潮クレスト・ブックス)

ボート (新潮クレスト・ブックス)

 

 ナム・リー『ボート』(小川高義訳、新潮クレスト・ブックス、2010)。ヴェトナム生まれ、オーストラリア育ち、アイオワ大学ライターズ・ワークショップに学んでデビューという1978年生まれの男性作家 Nam Le の短篇集。物語の舞台もアメリカ、イラン、広島、コロンビア、オーストラリア、そしてヴェトナム発の難民ボートと広範に及び、ちょっとどんなタグをつけようか困るような作品集だ。とりあえず、英語で書く作家であるということは確かだが、「ヴェトナム系作家」とくくられるような作品を書くことからはあえて距離を置こうとしているふしが窺える。

  • 愛と名誉と憐れみと誇りと同情と犠牲(Love and Honor and Pity and Pride and Compassion and Sacrifice

 作者自身が投影されているような、アイオワ大学の創作ワークショップで短篇の提出締切を控え焦っている青年。そこに疎遠だった父がオーストラリアから訪れる。

「おれも人が悪いとは思うんだが」と友人が言う。「なあ、ナム。言っちゃ何だが、おまえの書くものを、まともに考えていられないんだ。おまえはベトナムボートピープルを書いてればいいんだろう。第三作がそうだったな」
(…)
「おまえなんか、ベトナムを搾りつくせばいいじゃないか。ところが、よりによって、レズビアンの吸血鬼とか、コロンビアの暗殺犯とか、ヒロシマの孤児とか――痔を患ったニューヨークの画家なんてものを書いている」(15頁)

 結局、主人公はソンミの虐殺を14歳で経験した父の話をもとにエスニックな短篇を書こうと決意する。父は初めは反対するが、自分の半生を語って聞かせることに同意する。主人公にとって、父の経験した暴虐は小説の格好の素材であるが、それを作品化することは、父とのぎこちない関係を修復しようとする身ぶりでもあった。夜明けになって作品は書き上がるが、父は目を通すと原稿をあっさり火にくべてしまう。
 ヴェトナム生まれとはいえ物心ついた時にはすでにオーストラリアにいた主人公にとって、父の記憶は二重に隔てられて接近しがたいものかもしれない。そして父自身にとっても、息子に語って聞かせることはできても、それに息子の解釈が加わって作品に仕立てられるさま、自分の人生そのものが息子の手で再構成されるさまを黙って見ているのは不可能だということだろうか。出自が「自分にしか書けない」テーマをもたらすというステレオタイプに対して、自分の父の経験であるからこそ書けないという面を描いているようだ。

 コロンビアで「オフィスの仕事」つまり殺し屋として雇われている少年の話。友人を始末するよう命じられたにもかかわらず、遂行できなかったために元締めに呼び出される。自分でも気づかぬうちに報復に参加していたことを知らされる主人公。決定的な瞬間の直前で独白は途切れ、物語は終わる。

 「痔を患ったニューヨークの画家」の話。離婚した妻がロシアに連れて行った娘エリーゼが、天才チェリストとなって帰ってくる。長い間ともに暮らした自分よりずっと若い絵画モデルの死からこの方、創作ができなくなっているらしい画家は、18歳になった娘との再会に一縷の望みをつないでいるが、娘の方は自分から接触してきたもののまだ迷っている様子だ。彼が求めるのは娘なのか亡くなった恋人なのか、次第に判然としなくなる。

  • ハーフリード湾(ベイ)(Halflead Bay

 オーストラリアの田舎町の高校生ジェレミー。母の治療のために家を売って引っ越そうという話が出ている。フットボール選手として活躍しているが、スクールカーストとしては微妙な位置らしい。アリソンという同級生とちょっといい雰囲気になるが、フットボール部のエース、ドリーの彼女で、手を出したら厄介なことになると噂されているのだった。しかもドリーは叔父と一緒にしばしばアジア人を襲撃して殺しているという噂の男だ。案の定ジェレミーはドリーからの呼び出しを受ける。しかしジェレミーの両親が校長に話をつけ、ドリーとの一件を解決してしまう…。
 決定的な事態の直前で物語が終わる他の作品と違い、父親ともどもドリーに殴られる顛末が克明に描写されている。

 広島市内から学童疎開した少女マヤコ。父は神主で、兄は出征しており、小学六年生の姉は疎開を拒み、年をごまかして女子挺身隊や学徒報国隊に入っている。マヤコの意識の流れの中で、B29が一機だけ飛来して遠ざかり、また一機が近づいてきたことが語られる。肌身離さず持っている家族写真を撮ったときのマグネシウムの閃光と、「一機なら写真を撮るだけ」という言葉が重なるラスト。

 恋人と別れた直後のサラが、親友のパーヴィンを訪ねてイランに渡る。サラの視点から外部の人間の目でしかイランを捉えられない不安定さ、状況のつかめなさが描かれるが、彼女とイランをつないでくれるはずだったパーヴィンも、十代から海外に暮らしており「あの時お前はここにいなかった」と事ごとに言われる。少しずつ彼女の帰国の動機が明らかになるが、その時にはパーヴィンは警察に拘束されている。
 このラストには「えっ、そう来るの?」と戸惑いを覚えた。しかし、パーヴィンにはパーヴィンの事情があって帰国し、彼女の仲間であるマムードにも彼なりの思惑があり、そしてサラにはサラの喪失感があってイランに「逃げて」来たのであって、サラにすれば必然なのかもしれない。

  • ボート(The Boat

 冒頭の作品でボートピープルを描くことに抵抗を示しているが、両親の物語ではなく全くの創作とすることで対象化できたということなのか、ボートで脱出する少女マイの話が最後に置かれている。乗り合わせた母子と親しくなり、息子はマイになつくが、いつ目的地に着くともしれない苛酷な旅の中、母親は奇妙な反応を示すようになる。
 ナム・リーは生後三ヶ月で両親に連れられヴェトナムを離れ、マレーシアの難民キャンプを経てオーストラリアに渡ったという。マイらの乗ったボートがどこに着いたのかは語られない。マレーシアの陳翠梅(タン・チュイムイ)のショートフィルムに、漂着した難民(華人)が金の延べ棒を差し出して食物を乞う『南国之南』があるが、ことによるとクアンタンのあの村に着いた船に乗っていたのはマイたちだったのかもしれない。