林芙美子『浮雲』

 

舗装路から投げ出されたようなとりとめのない行き当たりばったりの男女の戦後は、「安南」生活の「富豪の邸宅の留守中に上り込んでゐるやうな不安で空虚なもの」の残影のようでもある。

それにしても富岡という男、関わる相手をことごとく不幸にしてゆく。「女を梯子に」するというより、ずるずると落ちて行く先々で指が引っかかればどこにでも体重を預け、逆に相手を梯子段から引きずり落とすような具合。しかし役人生活に代表される安全圏からこういう男を放り出せるのは戦争くらいだったようにも思われる。

富岡は安全な場所にいながら、他の人は気付かないような裂け目を目ざとく見つけ、鈎でほじくってみるようなタイプ。ゆき子の方は、家という仮想の保護膜の中で否応なしにむき出しの生に触れているせいか、安全圏に座るという発想自体が夢のようであるらしい。見て見ぬ振りをせずに逐一裂け目をほじくり、被膜に皺があればそこに爪を立て、清くも正しくもなく、安穏や安楽に背を向けて後ろめたさとほぼ無意識に闘い続けるやむにやまれぬどうしようもなさというか、「なま」の手触りが今の目にはとてもとても遠く思われる。