アドルフォ・ボリナガ・アリックスJr『車の影に』

 アジアフォーカス・福岡国際映画祭にて。
 白黒の画面、よく晴れた日のようだが、女がひとりうつろな目で街をさまよい、遊園地で観覧車に乗る場面から始まる。この主人公ノーラ(ジョディ・サンタ・マリア)は夫と小学生の娘サラ(キンベリー・フルガー)と共にトラックの下で暮らしている。そんな生活が可能だということに驚いたのだが、夫はトラック運転手で、しかしその給料だけでは家族を養うには足りず、前借りを繰り返している。会社の敷地内には大型トラックが何十台と停まっており、その車体の下に吊ったハンモックが一家の寝床となっているのだ。当然トラックもいつまでも停まっているわけではなく、いつかは出庫の時が来る。すると慌てて荷物をまとめ、他のトラックの下へと移動するわけだ。サラにとっては、学校から帰って来ると家がなくなっている、ということになる。
 地方からやってきて都市での最底辺の生活をしている彼らは、それでも政府の支給する住宅には入りたくないという。そんな所に入居しても仕事も無いし、何年も一緒に暮らした仲間がいるここの方が安心だ。こうした生活の中、成績の良い娘はノーラの唯一の希望である。娘の登校の支度をするノーラは、アイロンを借りに行って(仲間同士こうしたサービスがあるようだ)きれいに制服のブラウスにアイロンをかけ、ぱりっとした格好で送り出してやる。夜には宿題を見てやるし*1、娘の学業が最優先されている。それでも彼女の努力では及ばないところもあり、どうしても遠足の費用を工面してやることができない。娘のサラは聞き分けよく、代わりにいつか遊園地に連れて行ってねと言うばかりだ。公立の小学校だから、きっと貧しい家庭の子は彼女だけではないのだろうが、クラスではどんな風に過ごしているのかしらと心配になってしまう。
 だんだんと観ながら、中国の朝鮮族の母親を描いた張律(チャン・リュル)の『キムチを売る女』を思い出していた。『キムチを売る女』の母親は夫が収監されており、故郷を離れて息子と二人で暮らしている。この『車の影に』のサラは故郷を後にしてこそいるが、家族みなが一緒に暮らすことを選び、海外に出稼ぎに行って現金収入を得ることは考えていない。もっとも、近所では出稼ぎに行ったまま家族を棄てて姿を消した男もいたりするのだが。しかし、夫婦が一緒に住んでいても、夫がさしたる助けにならないことにおいては『キムチを売る女』と大差ない。美しいノーラは次第に、女を利用してわずかな金を稼ぐしかないところに追い込まれてゆく。サラの学芸会の衣装を買ってやりたくとも工面できず、ボール紙を切り抜いて天使の翼を作ってやるのが精一杯。
 これはこういう悲劇が襲う以外に無いな、と物語の向かう先はおよそ予測がつくものの、サラが自分を利用した男に復讐する場面は壮絶だ。しかもそれは人の噂でサラを不幸に追いやったのは彼だと囁かれるだけで、実は確たる証拠は示されていない。だから、単に犯人に対する復讐というより、自分をそこまで追い込んだ構造すべてに対して感情を爆発させているようにも思われる。特に、彼女の性を弄んだ男たち全てに対して。
 監督は物静かな風貌で、こんな劇しい映画を撮る人だったのかと驚いた。『キムチを売る女』を彼が観ているかどうかは分からないが、こうした物語の背景となり得る社会は世界のあちこちにあるのだろう。非常に残酷な場面があるが、モノクロの静かな画面と深い闇の描写で幾分生々しさが薄れ、やや距離感があるために何とか救われている。それでも相当に鮮烈で衝撃的ではあるのだが。
 フィリピンでの一般上映は、性的な描写(男性器がはっきり映し出される場面がある)が問題とされてまだ許可が下りていないとのことだが、そのシーンの有無は映画そのものの根幹に関わるので、カットせずになんとかしたいということのようだ。ロケ地となった港湾会社にはシナリオを見せた上で許可を得て撮影しており、エンドクレジットにも入れているというので、上映にこぎ着けられないのは企業側の圧力ということではないらしい。ドキュメンタリーのような雰囲気もあるが、主演女優はビッグネームだが脇役は現地で実際に暮らしている人々に出演してもらったとのこと。
 観終わって「すごいものを観た」というため息以外に言葉がでないような壮絶な作品だが、これは福岡だけでなく、全国で上映されることを望みたい。

原題:Chassis
製作年:2009
制作国:フィリピン
監督・脚本・編集:アドルフォ・ボリナガ・アリックスJr(Adolfo Borinaga Alix Jr.)
出演:ジョディ・サンタ・マリア (Jodi Sta. Maria)、キンベリー・フルガー(Kimberly Fulgar)、レミュエル・ペラヨ(Lemuel Pelayo)(ランド)、アンジェリ・バヤニ(Angeli Bayani)(シンシア)、エベリン・バルガス(Evelyn Vargas)(ビルマ
撮影:ガブリエル・バグナス(Gabriel Bagnas)
録音:ディトイ・アギラ(Ditoy Aguila)

キムチを売る女 [DVD]

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*1:英語のワークに向かう娘の横で、舟という単語を指して「これは“バンカ”のことよ」と教える場面があった。つまり映画『モンガに散る』の舞台となった台北の萬華こと艋舺はケタガラン(凱達格蘭)語で「丸木舟」を意味するそうだが、まさにタガログ語のバンカと通じることになる。こうして島々はつながってゆく!