トンドゥプジャ『チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』

チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある

チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある

 

 トンドゥプジャ『チベット現代文学の曙 ここにも激しく躍動する生きた心臓がある』(チベット文学研究会編訳、勉誠出版、2012)。
 チベット現代文学というと、ザシダワや阿来といった漢語(中国語)で書く作家の方に馴染みがあるが、最近は雑誌『火鍋子』(私は毎号きちんと熟読しているわけでもなく、決して良い読者とはいえないのだけれど)にもチベット語から直接訳された作品が掲載されるようになり、ありがたいことだと思っていた。そうして発表されてきた成果が一冊にまとめられたということになろうか。
 トンドゥプジャは1953年にアムドに生まれ、北京の中央民族学院で学んでから、青海省のラジオ局で働きつつ文革終了とほぼ同時に作品を発表し始めた。入試復活後には再び中央民族学院の大学院に入学、修了してからは講師を務めたが、その後アムドに戻り、改革開放のさなかの1985年、32歳で自死した。文革中が終わってチベット語による出版事業が再開され、チベット文化復興の機運の中で現代文学の旗手として活躍し、特にアムド地方で熱烈な支持を受けた作家であったという。
 収録されたのは2編の詩「青春の滝」「ここにも激しく躍動する生きた心臓がある」を含む15編。出てくる娘たちが運命に翻弄される素直で一途な働き者でなければ、とんでもない悪女という具合にややパターン化されている点など、古さを感じさせる部分もあるが、物語自体は予想よりはるかに面白かった。
 「霜にうたれた花」は幼なじみの恋人が様々な誤解から引き裂かれるも、物語が一回りして無事に大団円を迎えることを予期させる結末に至る。千夜一夜物語さながらに登場人物が一人ずつ順番に語る中で、少しずつ隠された情報が明らかになる構成には、芝居を見ているような楽しさがある。
 親に決められた結婚によって、抵抗するにせよ従うにせよ辛酸を嘗めるヒロインたちが何人も出てくる中、異色なのは「恩知らずの嫁」。大飢饉で母を亡くし、父と二人で暮らしていたクントゥ・ザンモは、文革で父が「人民の敵」として批判されるやいなや、紅衛兵と共に父を告発する側に回る。結果、父は暴行を受けて足が不自由になってしまう。文革終了後、彼女は父と共に温泉地に保養に行くが、今度はそこで出会った男とさっさと結婚して父を棄ててしまう。そこで気のいい夫が疑わないのをよいことに、姑をいびって追い出し、さらに他の男と通じてできた息子を夫の子と言いつくろい、やりたい放題の暮らしぶり。あげくに老いた父がはるばる彼女の居所を尋ね当ててやって来れば、「このじいさん誰なのよ」と知らぬふりを決め込んで追い出す始末。一種の傷痕文学として読むこともできるだろうが、この紅い悪女の極端な無軌道ぶりには不思議な魅力がある。
 未完の「ツルティム・ジャンツォ」は、あるチベット知識人の一生をたどる伝記の形式で幕を開ける。しかし途中で突然作者が現れ、自分は直接ツルティム・ジャンツォを知っているわけではなく、これは全て人づてに聞いた話に想像を加えたものであり、これでは最後まで書き続けるのは不可能だ、とやけを起こす。そこに不意にドアが叩かれ、見知らぬ男が入って来る。聞けばなんとツルティム・ジャンツォその人だと言うではないか。早速自分の人生を語ってもらい、それを紙に写すことにしよう…。稿の途切れたところまでは、書き手は素直に聞いた話をつづっているようだが、その後どんな風に展開させるつもりだったのか。ことによると、次第に書き手が「いや、違う、それでは面白くないからこう変えましょう」とツルティム・ジャンツォの生涯をあらまほしき姿へと勝手に改作してゆくプロセスが待っていたのではなかろうか。