茅盾『藻を刈る男 茅盾短篇集』

藻を刈る男―茅盾短篇集 (発見と冒険の中国文学)

藻を刈る男―茅盾短篇集 (発見と冒険の中国文学)

 

 先日の『腐蝕』に続き茅盾祭り、というほどではないが、翻訳で短篇集を読んでみた。
 「詩的恋愛」「上海から来た愛人」「第二章」「春蚕」「質屋」「煙雲」「藻を刈る男」の七篇を収録。
 十年以上前に読んだ記憶はあるものの、当時は特に面白いとも感じず印象に残らなかった。再読してみると、それぞれの作品の社会背景の説明がほとんど省かれているのに気づく。たとえば「第二章」は上海事変を描いたものだが、租界に避難する資格の有無など、同時代の読者に向けて書かれたせいか、背景知識なしに読むとつかみにくい部分があったのだろう。「春蚕」も翻弄される養蚕農家の視点から書かれており、繭の取引がなぜその年は縮小されてしまったのかは作品のみでは分からない。そのあたりが取っつきにくい印象を与えた原因だったようだ。今読んでみると、意外に立体的で、様々な問題を内包しているところにまた別の面白さを感じる。
 以下、それぞれの作品の覚え書き。

  • 「詩的恋愛」(宮尾正樹訳、原題:詩与散文)

  美しい寡婦を誘惑した丙青年。しかし当初の詩的な感覚は一度でうすれ、散文に変質してしまう。そして清純な従妹に心を移すものの、かといって寡婦との関係も断ち切れずにいる。
 だがそんな都合の良い状態が続くわけもなく、官能を呼び覚まされた寡婦は「青春の快楽を求める権利が神聖なものだと、あなたが私に教えてくれた」「その偶像が壊されない限り、私はあなたにまとわりついて、決してあなたを放さないわ」と、丙青年が誘惑のために弄した言辞を逆手に彼にのしかかり征服する。女の主導による性愛の場面でなすすべもなくされるがままとなる主人公の姿が描かれるのは爽快だが、今の目で読むと、しとやかな未亡人が性に目覚めて淫乱になるという設定自体がお決まりのファンタジーともとれる。
 ただ、話はそこで終わらず、最初の時のような「魂の震え」を従妹と経験したいと思いつつも、散文的な「肉の饗宴」の快楽に溺れきった丙青年は、最後に手痛いしっぺ返しを受けることになる。

  • 「上海から来た愛人」(白水紀子訳、原題:小巫)

 これは何とも陰惨な物語。上海から愛人として村に連れてこられた菱姐だが、実家に仕送りをするとの約束も守られず、一家の不満と欲望のはけ口となって虐待を受ける。性的虐待の描写の生々しさと、その中で少しでもましな扱いをしてくれそうな相手に対して菱姐が無意識に気を緩めてしまうところが、実に後味が悪い。

  • 「第二章」(伊藤徳也訳、原題:右第二章)

 1932年の上海事変で戦場となった上海。商務印書館の事務員の李氏と、活字工の阿祥の二人の視点から停戦までの日々が描かれる。李氏はフランス租界に避難し、爆撃で焼失した商務印書館からもなんとか退職金を貰うことができる。一方、抗日戦に身を投じた阿祥は、退却の隊列に逆行し「退却するな!」と叫び続ける。
 「上海の北四川路の日本兵のうち二百名余りが、中国兵と戦おうとしないばかりか、その[社会主義的]主張を宣伝して、上官の知るところとなり、半分が殺され日本に送還された、ということだった」という伝聞が記されるが、これは何らかの火のあるところに立った煙なのだろうか?
 また、上海事変といえば、穆時英の「空閑少佐」も読んだはずなのに、何が書いてあったのか全く思いだせない。

  • 「春蚕」(宮尾正樹訳、原題:春蚕)

 養蚕農家の視点から、養蚕の手順に沿って「春蚕の出来がよかったために、通宝じいさんの村の人々は皆借金が増えた」という不条理な結末に至るまで一気に語る。それが上海事変による製糸工場の操業停止、さらに日本生糸の市場流入により生じたということは、作中では説明されないが、農村が振り回され疲弊してゆくさまを描くことで社会構造そのもののの不条理が照らし出される。
 養蚕の手順やしきたりが詳しく書かれているのと、村の人間関係の微妙な部分がほのめかされているのが面白い。

  • 「質屋」(白水紀子訳、原題:當舖前)

 金も食物もなく疲弊しきった農村。王阿大は町の質屋に古着を持って行って今日の飯に換えようとするが、質屋の前は詰めかけた人波に妊婦が踏み付けられる騒ぎ。質草は受取って貰えず、王阿大は途方に暮れる。
 原注に「この地方の習慣では、死人は裸では閻魔大王に会うことができない」とある。時々昔の小説に「裸で閻魔様のところへ行かせないで、せめて服を着せて殺してくれ」と嘆願する場面を見かけるが、そういうことだったかと知る。

  • 「煙雲」(白水紀子訳、原題:煙雲)

  鉄道局に職を得て漢口にやって来た男とその上海出身の妻。男はなかなか長く勤められる仕事にありつけず、これが四度目の正直というところだ。幸い妻の実家に金があるので、その援助で暮らしに困るほどのことはない。愛する妻を導き幸せにしてやらなくては、という責任感から何かにつけて彼女を教え諭そうとするが、妻は小学校に三年通ったことがある程度で、夫のお説教を聞いていると眠くなってしまう。
 漢口に来て半年、妻はすっかり周囲の享楽的な雰囲気に染まり、毎週土曜日になると隣の黄夫妻の家に麻雀をしに行っては、朱という男とふざけあうようになる。その様子を気を揉みながら監視する夫の様子は、妻の人格を尊重しておらずあまりに封建的だと黄夫人の笑いものになるが、夫の不安は次第に的中してゆく。
 面倒くさい男と頭の空っぽな女のお似合いの夫婦で、勝手にしてくれと言いたくなる展開。夫のお説教を聞いているより、朱という男とふざけている方が楽しいから、とそちらになびいてゆく妻は、悪いことをしているという意識が全くない。夫を裏切ったとも思っていないし、「夢でも見ていたような」感じと言うばかりで、自分の欲望を追求するでもなくふらふらと流されてゆく。魔性の女というのはこういう無自覚なタイプだろうと思う。

  • 「藻を刈る男」(伊藤徳也訳、原題:水藻行)

 四十近くの独身男、財喜はいとこの病気がちの息子・秀生の家に居候し、夫婦の暮らしを助けている。しかしその結果、妻を二人で共有する奇妙な関係ができてしまう。秀生は生活の苦労に打ちひしがれた上に妻との関係に悩まされ、事あるごとに彼女を殴打する。
 八方ふさがりの絶望的に見える生活だが、どんな形にでも適応して音を上げずに生き続ける人々の姿が前向きに描かれる。しかし爆発寸前、表面張力でかろうじて保たれているような不安が残る作品だ。