多和田葉子『言葉と歩く日記』

原文の単語の元を旅立った訳者が、訳語にたどりつくまでの旅の長さが、訳者の豊かさでもある。(48頁)

言葉と歩く日記 (岩波新書)

言葉と歩く日記 (岩波新書)

 一月一日から始まり、最後の日付は四月十五日。「日本語とドイツ語で小説を書きながらベルリンで生活し、よく旅に出る人間の頭の中を日記という鏡に映してみようと思いたった」(12頁)のを発端に、「日本語とドイツ語を話す哺乳動物としての自分」の「観察日記」(231頁)として、自作『雪の練習生』のドイツ語訳を試みる日々が記録される。
 原稿の推敲について、「そしていつの日か、「これでいい」が「これ以上いじると悪くなる」に変わる瞬間が訪れる。そうしたら、できあがった原稿を旅立たせてあげればいい。それまでに何晩も眠らなければいけない。深い眠りが良い推敲の条件である」(49頁)というので、作家にとっては当然のことなのかもしれないが、やはり書き上げてからそれだけ時間をかけており、それだけの重さのある言葉が手渡されているのだとずしりと響いた。日記の終わる一日前、四月十四日の記述には「完成が間近い、というか、別離の時が迫っているという気がした。出来上がった瞬間は、喜びも悲しみも感じない。感情がゼロになる。それもなぜなのか分からない。そのゼロの時がかなり目の前に迫っている」(228頁)とある。
 私も小説の翻訳をしたことはあるが、「これ以上いじると悪くなる」のが分かるだけの感覚が養われていなかったし、締切に追われて最後は徹夜するはめになり、何度も朱を入れるうちに時間オーバーで強制終了されてしまったというような有様だった。そんなことを思い出して、テクニック以前に、そもそもの姿勢について深く反省する。
 また、三月二十日から二十一日にかけて、少年刑務所に受刑者たちの演じる芝居を観に行ったことが記される。受刑者三百四十人のうち、四割が移民一世か二世であり、その日出演した中にはドイツ語を母語とする者はいないという。「ドイツ語はできても、社会問題について考え、自分の抱えている問題を広い視野で考察し、それを人に伝える言語を知らない」(183頁)若い男性だ。自分たちで書いたテキストをラップにして歌ったり、シューベルトアイスキュロスなどを組み合わせて舞台を作ることで、「男性と暴力」について考え、それについて扱った伝統文化を学び、「暴力なしで問題解決できる人間になること」(181頁)を目的としたプロジェクトだそうだ。これは恐らく母語についても当てはまるのだろう。母語でずっと教育を受け続けていても、思考しそれを言葉で表現する力が弱いまま、義務教育を終えてしまうということもあるだろう。そうしたケースにどう対応してゆくか、言葉を学ぶという点で示唆に富む記述であった。
 そして、まったく関係ないが、エデン・フォン・ホルヴァート(Ödön von Horváth)の『信仰、愛、希望』(Glaube, Liebe, Hoffnung)という芝居を観に行ったという記述で思い出したことがあるのでメモしておく。ホルヴァートはオーストリア・ハンガリー帝国出身の作家だそうだ。同題の作品では、今年の東京国際映画祭ウルリッヒザイドルというオーストリアの監督のパラダイス三部作(愛/神/希望)が上映されていたが、「愛」と「希望」の二作を観たけれどどちらも強烈だった。特にセックス観光を扱った「愛」は、可笑しいのだけれど他人事として笑えない、ひやりとする仕掛けがそこここにあって恐ろしかったことを思い出す。