茅盾『腐蝕 ある女の手記』

腐蝕―ある女の手記 (岩波文庫 赤 27-3)

腐蝕―ある女の手記 (岩波文庫 赤 27-3)

 

 茅盾の1941年の作品、『腐蝕 ある女の手記』(原題:腐蝕)。原書ではなく横着して小野忍訳で読んだ。重慶を舞台に国民党の特務組織の内側を描いた作品。
 主人公の趙恵明という女性の日記の形式をとり、彼女の24歳の誕生日である9月15日から翌年2月10日までの記述から成る。もともと小学教師だった彼女は、同じ教師の小昭という男と暮らしていたが、希強という男の接触、ついで誘惑と脅迫を受け、小昭と別れて特務組織入りしたらしい。その後も同じ特務のGという男と関係し、子供を生んだものの病院に捨てたという過去を持つ。
 最初からいきなり同僚の小蓉という女とつかみ合いの喧嘩を演じるのでうんざりする。曰く、

 「ぶおんながずいぶんふざけたまねをするわね。でも、わたしは平気よ。まるでさかりのついた雌犬みたい。人が見たら、へどを吐くわよ。いちおう自分で鏡と相談すべきだわ」(8頁)

 という、相手の小蓉よりよほどの「あばずれ」ぶり。しかしだんだんと、色仕掛けで標的を落とすよう命じられたり、あるいは組織のほかの男たちから性的に利用されたりといった環境の克明な描写を読み進めるうち、これはお嬢さんではやってゆけまいと納得する。こうした女であることを日々強烈に意識せざるを得ない状況の中、彼女は自分が「女らしい女ではない」ことを繰り返し日記に綴る。それはつてを頼って人に助けをもとめたり、自分の無力さをさらけ出してゴシップの材料にされたりするような女ではない、という決意だ。
 とはいうものの、その割りにどうも脇の甘いところが目立つ。接触するうちに好感を抱いたKという男が、どうやら昔の同級生だった萍という女と親しいということを知るや、萍に対して反感を燃やす。その上、組織がかつての同棲相手の小昭を捕らえ、口を割らせる任務を彼女に与えた時、よみがえってきた感情に流されるまま下手を踏んでしまう。しかも、小昭の親友だと判明したKと萍を組織に売るような真似をしてしまうのは、彼女のいう「女らしい女」そのものの行為だろう。
 さらに、その努力も空しく、どこかに移送されたはずの小昭は殺されたと聞かされる。ただし、そこで物語は終わりではなく、彼女はつぐないのためか、新しく知り合ったNという女学生がかつての自分のように取り込まれようとしているのを知り、助けの手を差し伸べる。もっとも、それは土で作った菩薩が舟で川を渡るようなもので、結局Nを無事に逃すことができたのかどうかは明らかにされないまま物語は終わる。
 国民党によって逮捕・軟禁された丁玲の伝記と併せて読むと、ちょうど裏表の立場から見えるようだ。

丁玲自伝―中国革命を生きた女性作家の回想

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