丸山昇監修・白水紀子主編『中国現代文学珠玉選 小説3 女性作家選集』

中国現代文学珠玉選 小説〈3〉

中国現代文学珠玉選 小説〈3〉

 

 梅娘が5月7日に92歳で亡くなったそうだ。

 確か大学三年の春休み、初めて北京に行った時に琉璃廠の書店で『黄昏之献』を買ったのだったと思う。西安に向かう列車の中で読んだには読んだけれど、筋を追うのがせいぜいだった当時の私にはどうも古くさい恋愛ものという印象で、そのまま読み返すこともなかった。「南玲北梅」として張愛玲と並び称された、というのはどうやら伝説に過ぎないようだが、私もそれを真に受けたからこそ梅娘を読んでみる気になったので、結果的には読者の増加に資するところがあったのだろう。
 逝去の報に接し、『中国現代文学珠玉選』第三巻の女性作家選集に「僑民」が「異郷の人」(尾崎文昭訳)の題で収められていたのを思い出して読んでみた。
 梅娘自身を投影したような異国の若い女性が、大阪から乗った神戸行きの阪急電車で朝鮮の夫婦に席を譲られる。夫は職工から職工頭に取り立てられたばかりで、きっと故郷から妻を呼び寄せたばかりなのだろうと類推し、主人公は彼にだいたい同じ階級の女と思われたから席を譲られたのではないかと想像する。あれこれ妄想をたくましくしているうちに、自分のはめている男物の腕時計を彼に贈ってはどうかとすら考える。しかし、男の妻に対する支配的な態度を眼にして憎らしくなり、自分が男より懐具合が悪くないことを見せつけるかのように、神戸に着くとわざと彼らの目の前でタクシーの列に並んでみせる。
 異邦人同士のちょっとした遭遇で、かすかに覚えた共感が、夫と妻の間に生じる権力関係を見せつけられたことで一転するという展開。異邦人であることに加え、女であることで二重に周縁化されている主人公は、朝鮮の女にかわって夫に報復してやったような気分になる。だが、暗く沈んだ雨空は、彼女もそうした権力関係から結局は自由で有り得ないことを予感させているようでもある。
 ほかの収録作品では、楊剛「体刑」に、突き刺さるような妊婦の独白があった。いつ憲兵に夫が捕らえられるかもしれないという不安、隣人に監視され干渉される息苦しさ、そして貧苦の中での重いつわり、自分が足手まといになっているという後ろめたさ、そうした諸々に苛まれ、女は中絶を考える。

人が自分の歯で自分の心臓を食いちぎり、個人の感情を殺さねばならない時になって、はじめて覚悟なんてことが言えるのだ。その時に始めて分かるだろう、こんな時代には、自由を失った貧しい者が子供を産むことは、自分の生命活動を妨害することにほかならず、自分の子供がまるで敵の加勢者で、ひたすら自分への足枷と圧迫を増しにやって来たように思われることが。しかも同時に、自由を失なった貧しい子供自身も、生き長らえたとしても飢餓、恥辱、辛酸、無知、そして何もかも思い通りにならないという気持と事実だけが待ちうけているのだ。そうなった時、生命がいかに存在に適合しうるのかという問いは、全人類の課題だ。それなのに私は、なおも滑稽な母性愛で自分をあざむき、自分のためだけに自我拡張症を満足させようとしている。(63頁)

 腹の子供が邪魔だという率直な感慨は、昔だったら辟易して「じゃあ最初から妊娠しなければよかったのに」という感想を持ったかもしれない。だが、なぜか最近は、そう感じなければならないところに追いつめられる行き場の無さが妙に引っかかる。
 引っかかるといえば、次に配された蕭紅「手」もガラスの表面を石で擦ったように、いつまでも胸に引っかかって離れない。蕭紅は伝記映画が作られたりと最近注目されているようだが、これまで特に関心を抱いたこともなかった。林白の『たったひとりの戦争』で主人公が蕭紅の旧居を訪ね、ここで彼女は赤ん坊を死産したのだ考える場面があったが、そういえばどうして彼女がそんなに蕭紅に思い入れを持ったのかは考えてみなかった。こういう作品を書く人であったのか。
 以下、全収録作と原題を書き留めておく。

  • 謝冰心(西野由希子 訳)「二つの家庭」(兩個家庭)
  • 馮沅君(佐治俊彦 訳)「旅行」(旅行)
  • 沉櫻(佐藤普美子 訳)「祝宴の後」(喜筵之後)
  • 馮鏗(小谷一郎 訳)「子を売る女」(販賣嬰兒的婦人)
  • 楊剛(江上幸子 訳)「体刑」(肉刑)
  • 蕭紅(平石淑子 訳)「手」(手)
  • 林徽因(塩旗伸一郎 訳)「文珍」(文珍
  • 謝冰瑩(近藤龍哉 訳)「ある女性兵士の自伝」(一個女兵士的自傳)
  • 凌淑華(芦田肇 訳)「慶事(おいわいごと)」(一件喜事)
  • 羅淑(下出鉄男 訳)「売られた妻」(生人妻)
  • 白朗(下出宣子 訳)「生と死」(生與死)
  • 關露(加藤三由紀 訳)「新旧時代」(新舊時代)
  • 丁玲(丸山昇 訳)「夜」(夜)
  • 梅娘(尾崎文昭 訳)「異郷の人」(僑民)
  • 張愛玲(丸尾常喜 訳)「心経」(心經)
  • 蘇青(白水紀子 訳)「結婚十年」(結婚十年)
    たったひとりの戦争 (コレクション中国同時代小説 10)

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