『アジア系アメリカ文学を学ぶ人のために』

アジア系アメリカ文学を学ぶ人のために

アジア系アメリカ文学を学ぶ人のために

 

 植木照代(監修)・山本秀行・村山瑞穂編『アジア系アメリカ文学を学ぶ人のために』(世界思想社、2011)。「アメリカ文学」というくくりゆえか、紹介される作品は英語で書かれたものが中心。嚴歌苓(Geling Yang)のように中国語で書く作家はやはり扱われないが、このあたりは「華人文学」か「華文文学」かといった中国文学の側の議論であって、「アメリカ文学」としては問題にされないのかもしれない。
 中国系作家も含め、英語で書く在米作家はほとんどフォローできていなかったので、ブックガイドとしてとても参考になった。しかし、カレン・テイ・ヤマシタのようにあらすじを読むだけでわくわくするような作家の作品が、日本で単行本化されているのは『熱帯雨林の彼方へ』一冊のみというのは解せない。マキシーン・ホン・キングストンにしても絶版が続いているし(しかも『チャイナタウンの女武者』を読もうと思ったら、県立図書館でさえ所蔵していないというていたらく)、残念なことだ。
 先日あるところで、規範的な言葉の中に方言や地域語を交えて書かれた作品を翻訳する時、それをどう日本語にするべきかという議論があったが、その問題にかかわる記述があったのでメモしておく。ノラ・オクジャ・ケラー(Nora Okja Keller)による『Comfort Woman』において、従軍慰安婦とされた過去を持つ主人公の母・アキコことスンヒョの言葉を論じた箇所である。なお、アキコの言葉は原文では標準英語で書かれているとのこと。

「アキコ」の言葉を、主流言説に現れる滑稽なピジンで表すことが彼女の人間性のたいする暴力だとすれば、それを標準英語で表すことは、「アキコ」自身の言葉を消し去り、そこに韓国系アメリカ人作家としてのケラー自身の言葉を代替上書きし、同化・統合させる危険を冒すものにも思われるのである。
 あるいは言い方をかえると、このことは、他者理解における翻訳可能性と不可能性の問題、すなわち他者の言語を自身の言語への翻訳を介して理解するという問題とかかわっているといえるかもしれない。つまりここでケラーが、「アキコ」本来の言語を、作者あるいは読者の言語――ここでは「標準英語」という支配言語へ強制翻訳することで、本来完全には理解可能でないはずの他者の言語を理解可能としてしまう、その危険である。

中村理香「アジア系アメリカ文学および研究にみる他世界との交渉 ― アジア系ポストコロニアル批評」の可能性」

 また、同じく韓国系の作家、テレサ・ハッキョン・チャ『ディクテ―韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール』という作品の存在を教えられる。検索してみたら、日本でもこれを元にした舞台作品が、松田正隆演出で日韓共同プロジェクトとして2008年に、山田うんのソロダンスとして2011年に上演されているそうだ。

ディクテ―韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール

ディクテ―韓国系アメリカ人女性アーティストによる自伝的エクリチュール