何福仁『候鳥-我城的一位作家』

西西のドキュメンタリー『候鳥』、Vimeoでの期間限定配信で鑑賞。2019年(?)製作。

ムソルグスキー展覧会の絵」に合わせて一曲ずつ彼女の人生を区切りながら、インタビューやアニメーションで織り成される。上海での幼年時代、家では広州話、外では上海語、授業は国語だったとか。日本占領期には親類を頼って浙江省疎開。二歳年上のお兄さんがインタビューに答えて上海時代の思い出を語っている。「これは冗談だけど」と前置きして、西西が小学校時代に教室で突き飛ばされて頭をぶつけ、十数針も縫う大怪我をしたが、「それでインスピレーションの窓が開いたんじゃないか」などと。西西は上海時代の家(疎開から帰って住んだ方)と土瓜湾の家を再現したレゴブロックの家を指しながら、「ここの窓から解放軍の入城を覗いていた」とか、すごい記憶力だ。お父さんは上海時代サッカーに熱中し、名審判として知られていたそうだ。彼女のサッカー好きは親子二世代にわたるものらしい。

西西と家族や文学仲間の座談、彼女自身のドールハウスや縫いぐるみに混じり、彼女の作品から作られた歌やアニメ、インスタレーション、劇、ダンス、オペラなども挟まれる。160分の長さを感じさせない。

死化粧師の女性を主人公にした「像我這樣的一個女子」は特にさまざまな形式に翻案され、チェコの劇場の依頼で作られた英語オペラまであるのには仰天。浪人劇場の舞台劇(2015第八屆臺北藝穗節で上演)は、主人公の内心のせめぎ合いを二人の女優が二言語で演じるもので、一人が広東語で希求を語ればもう一人が華語で冷や水を浴びせる。

土瓜湾で中学に通い、また教えていたのもすぐ近くの学校で、何年も歩いた道。新亞書院では牟宗三の講義を聴講した由。『我城』の主人公のモデルになった弟さんも出演、電話線の敷設工事をしていた若い頃の話になり、後年『我城』を読んだら自分の昔のことが細かく書いてあった、と。

お兄さんが麗的電視に務めていた関係で、フィルムを譲り受けてニュース映画に編集したり、8ミリ作品を作ったりしていたという。映画批評の基礎にはそうした創作経験もあったようだ。筆名で分析的な文章も書いたが、基本的には読者に親しみやすい子供のような視点で書いている。

教師時代は午後の部の担当だったため、午前中は兄の紹介でニュース翻訳の手伝いに行くうち、『真報』に映画コラムを書き、停刊後は『中国学生周報』に連載を移した。

素葉出版社の時代から、瘂弦が西西の作品を気に入って洪範の社長に紹介、その縁で1970年には台湾でも出版されるようになった。出版人としての西西について特筆すべきは、八〇年代に現れた大陸の若手作家たちを台湾に紹介したこと。当時は大陸の文章を台湾で刊行するのも苦労があり、様々な手続きや審査のほか、原稿料の大陸への支払いのため、彼女は莫言ら当時の若手作家を訪ねて何度か現地に出向いたようだ。

手術後に右手の自由が利かなくなり、左手で原稿を書くようになる。それから熊や猿の縫いぐるみの制作を始め、ミシンの助けを借りて左手で縫ったという。2019年のニューマン華語文学賞オクラホマ大学での受賞式までがカメラに収められている。上海から香港への移住、そして大陸の編集者への取材で華語世界での受容を語り、米国で幕を閉じる構成。芸術家として「全身の使える力を最大限に使った」西西への、はなむけとなるフィルムだった。