レオニード・ツィプキン『バーデン・バーデンの夏』

バーデン・バーデンの夏 (新潮クレスト・ブックス)

バーデン・バーデンの夏 (新潮クレスト・ブックス)

 

 前にTwitterでフォローしていた人にバーデン・バーデンの住人がいた。妙な地名だがどんなところだろう、と思っていたが今でも有名な保養地で、19世紀にはロシアの貴族たち(や貧乏文人も)がぞろぞろ出かけるような場所だったようだ。
 語り手の「私」は冬のさなかの12月末、一冊の本を携えてレニングラード行きの列車に乗っている。読んでいるのはドストエフスキーの妻アンナ・グレゴーリエヴナの日記だ。彼ら夫婦のサンクトペテルブルクからバーデン・バーデンへの新婚旅行(そしてドストエフスキーが賭博に狂って帰国の旅費をすってしまう)をなぞるように、語り手はアンナののこした記録を読み継ぐ。
 「私」の現実の旅、アンナの視点から綴られた日記の中のドストエフスキー夫妻の旅、そしてドストエフスキーの視点からの超現実的なイメージ、この三つのレベルの語りが「私」によってなされる。息の長い文章によって、階段を上り下りするように継ぎ目無く三つのレベルの情景が浮かび上がる仕掛け。
 何としても二等辺三角形を作り、自分がその頂点を占めたい、というドストエフスキーの偏執的な矜恃には共感を覚えないでもない一方、こんなむつかしい男とよく添い遂げたものだと妻アンナには賛嘆あるのみ。もっとも、ドストエフスキーの作品はごくわずかしか読んでいないし、どれもかなり昔のことだから内容を忘れ去っているので、作品をよく読み込んでからまた『バーデン・バーデンの夏』を読み返せば全く違う味わいがあるだろうと思う。
 フェージャことドストエフスキーの視点からの語りには、幻想的で美しい描写がいくつもある。

フェージャが妻を抱いて胸にキスをすると、ふたりは泳ぎはじめた――ふたりは腕を同時に水から突きだして大きく掻き、同時に空気を肺に吸いこみながら岸からだんだん遠く離れて、青く盛りあがった水平線のほうへと力強く泳いでいくが、毎回のようにフェージャは押し寄せる波にのまれて脇に追いやられたり後戻りさせられたりして取り残されてしまう。彼女は、変わらず腕をリズミカルにあげながら、どこか遠いかなたに姿を消してしまい、フェージャは自分がもう泳いでいるのではなく、なんとかして両足を底につけようと水の中でもがいているだけのような気がしてくる。(19頁)

 これはアレクサンドル・ペトロフ監督でアニメーション化したらすてきな作品になりそうな気がする。