横溝正史「かいやぐら物語」

 高原英理編『リテラリーゴシック・イン・ジャパン 文学的ゴシック作品選』(ちくま文庫、2014)より、横溝正史「かいやぐら物語」。
 主人公の「わたし」は妄想や強迫観念に苦しめられた末、温暖な海辺(鏡ヶ浦とあるので千葉の館山のようだ)へ転地療養にやってくる。そのかいあって健康を取り戻しつつあるものの、相変わらず不眠に悩まされ、夜の砂浜を散歩するのが日課となっている。このまるで全身が研ぎ澄まされた神経のような青年が月明かりの砂浜を彷徨っているところに、嫋々たる笛の音が聞こえ、ついでヒロインが姿を現す。
 「かいやぐら」とは蜃気楼のことであり、うつつとも月の光に見せられた幻影ともつかぬ物語が女の口から語られる。主人公が白居易杜甫の詩句を諳んじつつ砂浜にさまよい出て、月に蟾蜍(ひきがえる)の姿を見ようとするくだりには中国的な抒情があるが、語り手が女に変わってからは明晰な調子に変り、やがて驚くべき出来事が露わになる。死んだ女をずっと傍らでうち守るところなどはポーのレジイアの雰囲気があるようだ。横溝正史という作家はおどろおどろしい探偵ものばかり書いていたと思い込んでいたが、この lunatic な物語をうつしとる文体には驚いた。
 ところで、このアンソロジー『リテラリーゴシック・イン・ジャパン』だが、「『文学的ゴシック』は、ともすればゴシックロマンスとその後継だけを拠り所に考えられがちな文学上でのゴシックな表現を、過去の模倣としてではなく現在の創造として探ろうとするものである」(リテラリーゴシック宣言、12頁)との宣言のもとに編まれている。北原白秋泉鏡花に始まり、最後は同時代の作品まで、詩歌も含めジャンルにこだわらず選ばれたもの。私の場合は初めて読む作家がかなり多く、しかもなぜ今まで手に取らなかったのかと口惜しく思うような作品だった。塚本邦雄僧帽筋」、赤江瀑「花曝れ首」、そして初めて知った作家である中里友香「人魚の肉」など、彼らの作品を読んでこなかったということ、つまりこれからまだたくさん読めるということは嬉しい。
 ゴシック的な要素は各作品にそれぞれの現れ方をしているが、全体として言えるのはまず精緻な、読者の意識を絡め取ってゆくような文体だろう。それから、三島由紀夫「月澹荘綺譚」に顕著な、視ることへの意識。これは眼球そのものへと及び、『アンダルシアの犬』のあの瞬間の与える戦慄へと通じてゆく。戦慄というより、ある一線を踏み越えてしまうというこれこそが編者のいう「不穏」であるだろうか。