魯迅『傷逝』

 Google香港に今日が“魯迅誕辰130週年”と教えられる。この木版画のロゴ、なかなか味がある。残念ながらGoogle日本やGoogle.com は通常ロゴだ。

 

 魯迅の作品を何か一つ、と「彷徨」に収録された『傷逝』を読んでみた。大学時代に読んだ記憶はあるものの、子君という女の人が出て来る話だったという印象しか無い。
 しかし再読、魯迅にこんな恋愛小説が書けたのか、と驚いた。親の反対をよそに自由恋愛を貫いて同棲し始めた二人だが、経済上の困難をはじめ、生活に追われて次第に共通の言葉を失ってゆく。主人公の男・涓生は一日じゅう家にこもって翻訳なり原稿なりに取り組んでいればよいのだが、三度三度の食事の支度を受け持つ子君は、食費の心配を含め生活の瑣事を一手に引き受けざるを得なくなる。最後には庭で飼っていた鶏もすべて食卓に載せざるを得ず、それどころかかわいがっていた犬も捨てに行くことになる。
 犬を捨てたことが二人の間にいっそうの溝を作るのだが、子君は涓生を冷血漢と誤解し、涓生はそれに勘づいていながらも彼女の気持に寄り添うことができない。じわじわと時間をかけて、いちばん愛している筈のお互いの存在が疎ましくなってしまうのだ。
 結局、涓生は彼女に「もう愛していない」と致命的な一言を投げつけてしまい、彼女はひそかに父の家に帰る。ただし出戻りの娘に実家の空気も周囲の目も冷たいことは簡単に想像がついた。その想像に漏れず、彼女も生命を摩耗させ、ついには世を去ったという消息が主人公の耳に届く。
 家庭の幸福を象徴する食事を真心こめてととのえて、「今はいい」と言われるのも腹が立つだろうが、いっぽうで筆が乗っている時に「ご飯よ」としつこく言われるうっとうしさもよく分かるし、かと言って普通はそういったことが積み重なっても破局には至らないのだから、この二人は縁が無かったとしか言いようがない。とはいえ、既成の男女の関係の歪みが全て二人の上に吹き寄せられたようでもあり、痛ましさのつのる話だ。
 ところで、本筋と関係ない末節で、妙にしみじみと胸に迫る箇所があった。

但譯書也不是容易事,先前看過,以為已經懂得的,一動手,卻疑難百出了,進行得很慢。然而我決計努力地做,一本半新的字典,不到半月,邊上便有了一大片烏黒的指痕,這就證明著我的工作的切實。