〜得什麽似的

 穆時英の小説にくりかえし“得什麽似的”という強調表現が出てきたのでメモしておく。

  • 他妈的,他哪里管得你这么多,飞似的冲过来,牛奶西施慌了,往旁一躲,一交跌在水里。把汪大哥气的什么似的。可是什么用?汽车一溜烟似的擦了过去,溅了汪大哥一衣服的泥水。(黒旋风)
  • 那天汪大哥给小玉儿在戴春林买了双丝袜,小玉儿喜欢得什么似的,跑出来时,那几个相公还等在门口,妈的,还想勾搭女孩儿家,给我当兔子倒不错哩。(黒旋风)
  • 我瞧见了他,开心的什么似的,我黒旋风得出闷气了,我也不等他开口,立刻把小玉儿的事全说给他听,一心盘算着他听了,一跳三丈高,就和我去宰了她,叫了兄弟们一起走他妈的,把峨眉山人也请了去。(黒旋风)
  • 那天回去,我可真乐的百吗儿似的啦。(咱们的世界)

 最後の“百嗎兒似的”という言い回しは初めて見た。台湾の「教育部重編國語辭典修訂本」には児女英雄伝第21回の“昨日聽見這個信兒,就把我倆樂的百嗎兒似的”という例が挙がっている。解説は“表示到了極點”極点に達したことを表す、とあるが、許少峰編『近代漢語大詞典』は同じ例を引いて“犹不知所以,不知如何”(どうしたわけか、どうしたらよいか)と解釈している。漢語大詞典には収録なし。日本の辞典では大東文化大の『中国語大辞典』に“百吗儿似的”で立項され、「どうしてよいかわからない、なんともしようがない」との釈義が見られる。引かれているのは同じく児女英雄伝の例。この辞書は別に“百吗儿”の項目を設け、“什么”に同じとしている。山西方言である由。つまり“百嗎兒似的”というのは“什麽似的”と同じということになるようだが、検索した限りだと前につく動詞は“樂”に限られるようだ。もっとも、白話語彙とされているので現代語ではほとんど用いられることはないのだろうが、山西の人に会ったら方言では使うかどうか聞いてみたいところだ。