邱涌耀『Ah Kew The Digger』(2004)

 VCDでマレーシアの邱涌耀(Khoo Eng Yow /クー・エンヨウ)による04年のドキュメンタリー、『Ah Kew The Digger(峇峇球)』鑑賞。IMDbにはデータが入っていないが、The Asian Film Archiveに紹介がある。

asianfilmarchive.org

 在野の歴史学者、李永球がマレーシアはペラ州タイピン(太平)の歴史を語る記録映画だ。彼はコピティアムで老人たちの昔語りを聞いて育ったが、やがて彼らの語る歴史はどこにも記録されていないことに気づく。そしてタイピンの街の歴史を記すべく、二十年にわたるフィールドワークを続けて来たという。峇峇球という奇妙な中国語題は彼の筆名で、ババ(中華系プラナカン)の出身ということから付けたらしい。

 タイピンは元々錫の採掘で発展した街で、1840年代にペナンから20人の中国系労働者を連れてマレー人の酋長が採掘を始めたのが最初ということだ。最初にカメラが訪れる古跡は、華人の結社、海山党の領袖・鄭景貴の墓。海山党は敵対組織である義興党と抗争を繰り返し、Larut Wars として西洋人の記録にも残る三度にわたる大規模な闘いが繰り広げられた。イギリス政府はそれに乗じて、それぞれの組織との関係を通じてマラヤでの影響力を強め、四度目の闘いの最後には邦咯協約(Pangkor Treaty)が結ばれ、鄭景貴と義興党の党首はそれぞれカピタンに任じられた。そして1874年、闘いの終結した町は平和を記念して「太平」と名付けられたという。

 続いては黄務美という豪商をめぐり、その曾孫たちにインタビューする。中国本土からジャカルタ、メダンなどを経てタイピンにたどり着いた彼は、貧しい境遇から身一つで事業を興した。彼が財を成したきっかけは、最初の鉄道建設に際し、サプライヤーとしてイギリス人に協力したことだという。錫を運ぶために敷設されたペラ国有鉄道は1885年に開通した。黄務美はマラヤの発展に尽くす一方、中国にも強い帰属意識を持ち続け、国民党を援助し、故郷にも学校を建てるなど寄付を惜しまなかったそうだ。

 最後の主人公となるのは海賊の陳番城。海賊と言っても、彼は船を襲ったりはせず、殺人犯として指名手配され、海上を逃亡していたことから「海王」の名で呼ばれる。貝の採集権を独占し、最新の機器を投入して大きな利益を上げ、金離れがよく施しを惜しまず、寺廟にも多額の寄付をしたり施主となって酬神戯を行ったりしたため、地元では英雄扱いという奇妙な人物である。彼は1959年から81年まで指名手配されていたが、最後はタイに逃れ、そこで没したと言われる。彼を知る人のインタビューでは、給料の払いがよく、彼の元で働いた者には慕われたという。やがてモーターボートを用いて漁をするようになり、海で暮らす必要がなくなったため、1971年に水の豊かな内陸へと村ごと移住しようとしたという話が面白い。最初は移住を許可されなかったが、陳番城の拠点だと判明し、根こそぎにする意味で73年に移転したのだそうだ。それでも本人は結局捕まることはなく、法の外で逍遙としていたのだから妙な話だ。

 さて、こうした人物を中心に、それぞれゆかりの地を尋ね、主に墓や廟といった古跡をめぐりながら李永球が滔々と語るスタイル。この李永球本人がまた興味深い人物だ。自転車でタイピンの町を巡りひたすらフィールドワークを続けているらしい。もともと菓子屋の息子で、中学卒業後は店の手伝いをしながら、歴史の調査を続けているという。特に学歴があるわけでもない彼が、二十年来の研究成果を出版したいと言っても、なかなか資金を集めることはできない。会館では「彼の仕事は素晴らしいし私たちも支持する」と言うものの、「博士や教授ならともかく、肩書きが何もないのでは会員に対して説明がつかない」と援助を拒否される。出版社では、もっと有名人や富豪になった人物を書かなければ売れない、市井の小人物のみに焦点を当てるなら自費出版に、と言われる。資金援助を頼んだ友人には、「保険のセールスとか時間の融通の利く仕事に就いて、安定した収入を得てから理想を追ったらいいのよ」と言われる始末。歴史家とは言っても、端から見れば、良い年をして無職でふらふらしている、としか見えないわけだ。しかも彼は高等教育を受けていないため、その研究も不当に低く評価されがちだという。

 会館の有力者、出版社社長、友人へ監督がインタビューした場面が、それぞれ古跡巡りの合間に挟まれる。最後になって全て俳優が演じた再現映像だと明かされるが、私はすっかり騙されて見ていた。

 様々な人のインタビューを通して、タイピン建設期の伝説が語られる。検証してゆくと必ずしも正しいわけではないのが分かるが(たとえば、イギリス人に殺された人物を祀った廟では、西洋の果物や洋酒を持ち込んではならず、洋酒を持ち込んだら必ず瓶が割れると伝えられているが、実は彼を殺したのはマレー人だったことが分かっている)、そう信じたい心があったのだろうと思うと興味深い。

 細かい部分で面白いのが、20世紀初頭から流行したが現在はすたれているという墓の彫刻。なんでも当時は、ベンガル人を門衛として雇うことが多かったとかで、墓にもその石像が作られている。タイピンには七対が現存するそうだ。これは中国大陸には見られないものらしく、本土化の一例だ。

 フィールドワークの成果が中心に示されているのだが、文献調査はどんな風にしたのかなど、つい気になってしまうところはあるものの、楽しく見られた。李永球はその後、著書の出版に成功し、2009年現在『移國:太平華裔歴史人物集』(ペナン・南洋民間文化、2003年)『日本手:太平日据三年八個月』『字言字語』の三冊があるそうだ。

 

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