土井敏邦『侵蝕―イスラエル化されるパレスチナ―』(2009)

 明治大学での上映会で鑑賞。4部作の第二部にあたる作品。映画上映用のホールではなく講義用の教室だったので、座った位置が悪く字幕がよく見えなかった。不十分な理解ではあるがとにかくここに記録しておく。

 

 


 イスラエルはなんといっても "Jewish state" であるため、公言こそされないがユダヤ人が多数を占め続けるよう人口比率の維持が行われている。およそユダヤ人が7割、パレスチナ人が3割を切る現在の比率を保たなければならないのだ。そのため、パレスチナ人が出て行かざるを得ないように様々な政策が実施されているという。分離壁の建設にしても、イスラエルパレスチナ停戦ラインではなく、そこからパレスチナに食い込んだ形で建設されており、境界の村では井戸がすべて壁の向こうに区分されてしまったため、イスラエルの制限の下でしか水資源を使えなくなっている。許可された量を超えて使用することはできないため、畑の灌漑にも不十分で、水を多く必要とする作物は作れなくなったそうだ。

 この映画でもっともシュールなのが、オリーブ畑がイスラエル入植者のパワーショベルで根こそぎにされる場面だろう。買い取ったというが、パレスチナ人の方は納得しておらず、弁護士を挟んで話し合う約束のまさにその日に畑は破壊される。手続きの正当性はともかく(イスラエルの法律ではおそらく完全に正式な手続きに則った契約ということになっているのだろう)、当事者は全く納得していないまま、まさに青天の霹靂といった具合に財産が奪われるという状態が問題なのだ。しかも、畑は単なる金銭に換えられるものではない。代々受け継いだ土地で、子供のように丹精した樹があっという間に目の前で破壊されてしまうのだから。

 しかし、根こそぎにしておいて、「ここにはもともとオリーブ畑などなかった」とうそぶいてみても、残った根から再びオリーブは芽吹く。この若木は象徴的ではあるが、再び人の背丈を超えるほど育つかどうかは占えない。

 イスラエル軍兵士が幾度も映るが、容姿のみで言えばパレスチナ人とほとんど区別の付かない者もいる。それがモスクに入って礼拝しようとする側と、それを入れまいとはねつける側とに分かれているのだから、映像だけ観ると不思議な感じだ。

 また、序盤でインタビューされた女性が、家をブルドーザーで破壊された時のことを語って、イスラエルの女性兵士に殴られたと言っていた。イスラエルは男女問わず徴兵制度を敷いているのだから、女性兵士が存在するのは当然なのだが、自分がなんとなく占領行為に対して男性的イメージを抱いていたことに気付かされる。家族の男性の留守に、女性と子供だけの家を男性兵士が破壊する、というような思い込みがあったのだが、占領の最前線には当然ながら女性兵士もいるというわけだ。


 上映後に監督のメッセージビデオが流された。入院されている由で、点滴を打ちながら映画の解説と先日のイスラエルのガザ支援船団拿捕について語ったもの。これは大体監督のwebコラム「イスラエルによるガザ支援船攻撃への見解」に書かれたものと同じ内容だったので、当該記事から引用しておく。ここに私が付け加えられる言葉は無い。

 

www.doi-toshikuni.net

     国際支援団体「フリー・ガザ・ムーブメント」によるガザ支援船の主な目的はもちろん1万トン近い支援物資を封鎖下のガザに届けることではあるが、彼らの本音の目的はもっと深いところにあると私は観ている。彼らもイスラエル海軍が支援船のガザ入りを阻止し、拿捕することは十分予想し、その準備もしていたはずだ。むしろ拿捕され国際的なニュースになることも、彼らにとって重要な目的だったと私は思う。
     ガザ攻撃「終結」以来、ガザのその後の状況に関するニュースは国際報道の表舞台から消え、攻撃終結以後も続く過酷な“封鎖”の実態はまったく無視され続けてきた。そんな状況のなかで、自分たちの支援船がイスラエル当局によって拿捕され国際ニュースになることで、「ガザでは、武力による攻撃は下火になっても、 “封鎖”という深刻な“構造的な暴力”が延々と続いているという現実に国際社会の目を再び向けさせたいという強い決意があったにちがいないのだ。

 

     今回の事態でも、人道活動家9人の死と数十人の負傷への国際非難が集中し、彼らがそこまで犠牲を払って国際社会に訴えようとした“ガザ封鎖”という“占領”の実態へ国際社会の目を向けさせ、これを解除する方向へと国際世論を高めえないとすれば、“人柱”となった彼らの犠牲を無駄にしてしまうことになる。私たちが彼らから引きつがなければならないのは、“ガザ封鎖”の現実を国際社会に訴え、状況を変える空気を作っていくことである。