B.Z.ゴールドバーグ他『プロミス』(2001)

 ジャスティーン・シャピロ(Justine Shapiro)、B.Z.ゴールドバーグ(B.Z. Goldberg)、カルロス・ボラド(Carlos Bolado)による01年のドキュメンタリー、『プロミス』(Promises)。

 イスラエルパレスチナの子供たちにそれぞれインタビューを重ね、最後にイスラエル人の双子の少年をパレスチナに連れて行って遊ばせるというもの。

 

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 直前に観た『刑法175条』で、収容所から生還したユダヤ人が、「もう二度とホロコーストの恐怖に脅えたくない、これからずっと安全に暮らしたい」と語っていた。しかしその安全な土地であるはずだったイスラエルの現状を考えるとき、その言葉は何とも皮肉な響きを帯びる。

 アメリカ生まれのユダヤ人の少年が登場する。父もアメリカ生まれだがユダヤ教のラビで、当然息子である彼も敬虔に律法を学んでいる。この親子は恐らく、イスラエル生まれのユダヤ教徒とはやや立場や考え方が違うのではないかと思われるが、比較的リベラルな印象を受ける。敬虔な信者の例としてこの親子を選んだのは、制作者の苦心だろう。それでも少年は、アラブ人と対話することはないし、敵対しないにしても交流したいとは思わない、それは政府の要人がすることだ、と言う。とはいうものの、外でインタビューしている途中に近所のアラブ少年がやって来ると、「別に友達じゃない」と言いつつ顔見知りであるだけに、何となく無言のコミュニケーションができていたりする。

 一方、イスラエル人の双子の少年は、世俗的な家庭に育ち、嘆きの壁の前で熱心に祈りを捧げる教徒たちの姿を目にすると怖じ気づいてしまう。ナレーションによると、それが世俗的なイスラエル人の普通の反応であるそうだ。パレスチナのラシード・マシャラーウィの作品『エルサレム行きチケット』では、アラブ人の家を一室ずつ奪い、元の家主を一室に押し込め、公共のトイレも鍵をかけて使わせないなどの嫌がらせをするユダヤ人の姿が描かれていた。黒ずくめの服装に帽子、あごひげのユダヤ教徒だったが、同じイスラエル人でも宗教に対する距離はずいぶん異なるようだ。多様な背景の国民からなるだけに、ユダヤ教というのが求心力として重要なのかと思っていたが、当然と言えば当然ながら濃淡の差は大きいのかもしれない。

 パレスチナ側の子供たちとしては、インティファーダの際に弟や友人を殺された少年、または父親がPFLP幹部で現在も収容されているという少女が登場する。

 イスラエルパレスチナ双方の子供たちに共通するのは、相手についてあまり具体的なイメージを持たず、漠然とした恐怖心を抱いているということだ。ここで彼らの間をつなぐ役割をするのは、イスラエル人とアメリカ人の両親を持つ監督のB.Z.ゴールドバーグである。彼が画面に映る場面はそう多くないが、気の良いお兄さんという感じで双方の子供たちに慕われていることが分かる。パレスチナの子供は、イスラエル人の子供に会ってみるかと聞かれ、最初はイスラエル人と会うのはいやだと言う。そこでゴールドバーグが「僕もイスラエル人だよ」と言うと、「だってBZはアメリカ人でしょ」「半分アメリカ人なら構わないけど、完全にイスラエル人の子とは会いたくない」と理屈をこねる。まあ、イスラエルユダヤ人と言っても、見ただけではアラブ人と区別できないような人も多くいるのではないかと思うのだが。それでも心理的な抵抗よりは興味が勝り、結局子供たちは会うことになる。パレスチナ側から検問を通ってイスラエルに行くのは困難なため、イスラエルの二人が難民キャンプを訪れるかたちで交流が実現する。しかし、それぞれアラビア語ヘブライ語母語とする両者の共通の言語は、学校で習った英語のほかない。B.Z.が米国系であるという事実も含め、勘ぐれば制作者の意図を超えていくらでも深読みができそうだ。いずれにせよ、言葉の通じない相手は、実際以上に不可解な存在に映りやすい。検問に詰めるイスラエル軍兵士などはみなアラビア語の研修くらい受けているのかと思ったが、もちろんそんなはずはなく、パレスチナ人にとってはわけのわからないヘブライ語で理不尽な禁止を命じる存在でしかない(たとえ言葉が通じたからと言ってイメージが変わるとも思い難いが)。

 一日だけの交流から二年後、再び取材のカメラが入る。イスラエル側の子供しか映されないが、情勢が変わってパレスチナでの取材ができなかったのだろうか。双子は何度か電話で話したが、いつも向こうからかかってくるばかりで自分たちからはかけなかったと言う。現実はこういうものだろうが、なんともやるせない。このとき取材を受けた子供たちは今もう二十代になっているだろうが、みな無事に暮らしているのだろうか?