リー・クローニン『死霊のはらわた ライジング』(Evil Dead Rise、2023)

 これは設定が邪悪すぎる。湖畔の山小屋で悪魔に襲われる若者たちの話と思いきや、それはまくらに過ぎず、メインはその前日に悪魔を呼び出してしまった一家の惨劇だ。

 妊娠に気付いた妹は、長く疎遠だった姉の家を訪ねる。しかしタトゥーアーティストの姉は離婚して間もなく、三人の子を抱えてなんとか日々を過ごしている状態だった。妹はバンドのスタッフとしてツアーに参加しているが、姉は内心「グルーピー」にすぎないと思っているらしい。

 

 

 やがて地震で床が崩落し、アパートの地下室が露出する。そこで見つけたレコードを、DJに憧れる息子が面白半分に再生するが、それは悪魔を呼び出す呪文の録音であった。ちょうどエレベーターで地下に降りようとしていた母が取り憑かれてしまう。そこから先は、母が三人の子の眼前で悪魔に憑かれ、助けようとした隣人たちも惨死、さらに長女の身体にも悪魔が入り込み……という凄まじい展開。

 少女が憑依されて家族が右往左往するという王道ではなく、父が出て行った家庭で母が取り憑かれる恐怖。父もいなければ神父もいない世帯では、ひとたび悪魔と化してしまえばもはや母でも姉でもなく、身体をバラバラにするか逃げるかするしかない。家庭は崩壊あるのみ。周囲が援助の手を差し伸べようとすれば、引きずり込まれて自分も命を落とすことになる。

 高校生くらいの息子がつい「悪魔を呼び出し」てしまうことはあるだろうし、それがまず母に憑き、長女に憑くというのも現実に起こりうるだろう。悪魔の言葉なのか、それとも実は自分を邪魔に思っている家族の本心なのか定かでない部分がまた怖い。血糊の量は満点だが家族ドラマとしては後味が悪すぎる。

 

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イリス・ザキ『美容室』(Women in Sink、2015)

 故郷ハイファで友人フィフィの経営する美容室にカメラを設置し、女たちの髪を洗いながらインタビューする監督。アラブ人キリスト教徒の店だが、ユダヤ人の常連客も多い。ほぼ10年前の撮影だが、第二次インティファーダ以降イスラエル国内に醸成された民族関係の緊張が背景にある。アジアンドキュメンタリーで配信。

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 監督Iris Zakiはユダヤ人で、祖母がポーランド(現ウクライナ領)出身だったという。ホロコーストを生き延び、ナクバを経たハイファにやって来て、アラブ人が出て行った後の家屋に住むようになったというから、まるきりガッサーン・カナファーニーの小説『ハイファに戻って』の登場人物と同じだ。だが、小説とは異なり、家屋を残して去ったアラブ人が戻って来ることはなかったようだ。孫娘は「アラブ人は危険だから近付かないように」と言われる環境で育ったが、イスラエル社会に疑問を持つようになり、故郷の街で取材することを思い立つ。

 カメラの前で語る女性は監督を除いて10人。ユダヤ系の客が多数だが、イスラエルに暮らすアラブ人キリスト教徒の生活も窺える。「私たちもユダヤ人は怖いと教わったからお互い様ね」とかわすナワルという女性の場合、ナクバで親戚の四分の三はレバノンに脱出したという。現在も交流はあるが、イスラエル人はレバノンに入国できないので、ヨルダンか欧州で会うという。ヘレンという客はアラブ人キリスト教徒の父と超正統派の家庭に育った母との間に生まれた。母方の親族は結婚に反対したが、授かり婚で押し切ったらしい。兄弟の中にはユダヤ教を信仰する者もいるが、彼女はキリスト教徒だという。

 アラブ人の間でも、キリスト教徒とイスラーム教徒では時として軋轢が表面化することがある。06年のレバノン侵攻の後、イスラーム教徒はイスラエルのアラブ人キリスト教徒に敵対的になったという。アラブ人社会を支えようと決めたという女性のコメントも。

 店主のフィフィは娘が国防軍に入隊しているという。アラブと戦うことになったらどうするのかと聞かれ、「自分はイスラエルの人間だから構わない」との答え。ナザレ生まれのリームは、三年前に結婚してハイファに来たが、故郷よりずっと良いという。アラブ人であることで差別を受けたと感じたのは大学時代くらいだが、ハイファでは異なる宗教が平和的に共存していると語る。イスラエルの中に差別はあるが、ハイファの街では感じないというのが複数人の証言だ。

 他方、ユダヤ人の語りはさらに複雑だ。学校教師のカリンはアラブ系の子供にまでユダヤ人の伝統を教え込むことには批判的で、アラブ人とユダヤ人が融和するよう子供に教えているが、自分が少数派であることは自覚している。アラビア語を話すダリアという女性は父母の出身地はポーランドとロシア。イスラエルユダヤ人の国だという信念を持つ彼女は、アラブ人が身近にいる環境で育ったのでアラビア語も話せるようになったという。しかし「人種差別は少なくとも私の周りにはない」「アラブ人を排除しているのではなく、彼らが勝手に出て行くのだ」という主張は曲げない。

 ポーランド出身の女性イリットは、少女時代ゲットーや地下室の隠れ家で暮らした経験を持つ。ホロコーストのトラウマを抱えつつ、まだ「トラウマ」という言葉も知られていなかった頃で、苦しみが続いたと語る。イスラエル政府はホロコーストのサバイバーに対して何もしてくれない、語られた言葉を信じてもくれないと、別の側面からイスラエル政府を批判する。

 こうした様々な女性たちがこの美容院の常連となった理由を、ユダヤ系のイェフディットが説明する。彼女の姉が遠くの街で移植手術を受けることになった時、常連客たちが店に集まって一緒に祈ってくれたという。店主の人柄もあり、宗教が異なっても、女たちの心理的な結びつきが形成されている。

 店内のカレンダーは2014年。10年前の監督は、ハイファに帰って共存への信念を強め、カメラを片付けて店を後にする。10年後の今、ガザへの攻撃がなお続く中、ハイファの女性たちは同じことを語れるだろうかと思う。

 

★ラシード・マシャラーウィに『ハイファ』という長篇劇映画がある。ハイファに残ることのできたキリスト教徒の暮らしとは別に、ハイファの街をを後にしなければならなかった人々の、難民キャンプでの暮らしが描かれている。

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Cassius Michael Kim『Man On The Run』(2023)

 マレーシアの1MDBを隠れ蓑にした金融犯罪をめぐるドキュメンタリー。Netflixで配信。

 タイトルの「逃亡者」とは、一義的には計画実行と不正に得た金額からして最大の責を負うと思われるジョー・ロウのこと。今なお消息は不明で、捜査関係者の推測では生きているなら深圳など中国のいくつかの都市のどこかに潜伏しているのだろうとのこと。それは中国にとって彼が何らかのカードとなり得るからだろうが、その効力がいつまでも続くわけではなかろうという見立て。

 この金融犯罪ではナジブ・ラザク元首相も22年に有罪判決が確定し、12年の有期刑と2億1千万リンギットの罰金が科せられていた。それが24年2月に特赦局によって減刑が認められ、半分の6年(つまり2029年8月23日に出所予定)と罰金5千万リンギットで済むとのこと。アブドゥラ前国王が1月末で退位、ジョホール州スルタンのイブラヒムが即位することで恩赦となったようだが、減刑の理由は説明されていない。ロスマ夫人も有罪判決を受けているが控訴、保釈中。*1

 2024年1月にNetflixで配信が始まってから、ナジブ元首相の弁護士から配信停止の要求が出されているという。ただ、すでに映画館で上映されたものでもあるそうで、法的手段に訴えたところで停止命令は出されないのではないか。元首相自身が取材に答えた映像も使用されている。

 

 1MDBの名のもとに金を流す手段は非常に複雑で、報道したジャーナリストや当時の捜査関係者のインタビューを聞いてもよく分からない。米国司法省やFBIまでが捜査を始め、合衆国内での金融取引があり、ゴールドマン・サックスの元幹部が関与したことで米国で起訴されることになった。

 一つだけ理解できたのは、特定の個人が単独で利を貪ったわけではなく、公金を洗浄して個人の口座に流す過程で、非常に多くの人間が関与し総合的な構造が作られていたということだ。その一画に加わることで利益を吸い上げ、様々な恩恵に与ることができる。本体の存在しない虚ろな構造体に、首相の義息子やゴールドマン・サックス、サウジアラビアの王族や高官という信誉や財力が架空の力を与え、国民の税金からなる資本を吸い尽くしたように見える。

 

 不思議なのは、立役者としてスポットライトを浴びるべきジョー・ロウの影の薄さ。写真や動画を見ても、のっぺりとしたその顔からは、脂ぎったぎらぎらするような野心も、豪奢なパーティーで自分を大きく見せたいという欲求も特に感じられない。周りにスターがいるから霞んでいるのかとも思うが、それぞれインタビューに答えるジャーナリストや捜査関係者の方がよほど「キャラが立った」感じがある。マレーシアのギャツビーという惹句もあるが、そんな成り上がり的な感じもなく、かといって特に洗練された雰囲気でもなく、とにかくとらえどころがない。ロスマ夫人のブランドバッグコレクションのようなわかりやすい執着でもない。彼の人生では彼が主役なのだろうに、さっぱりわけが分からない。

 

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*1:ところで、マレーシアの報道では有罪判決後も「タンスリ」の称号はそのまま冠されている。一度授与された称号は、実刑判決の後も剝奪されることはないのだろうか?

Nizam Abd Razak『メカアマト MOVIE』(Mechamato Movie、2022)

 劇場版メカアマト、日本では吹き替え版のみの上映。公開最終日に劇場で鑑賞。(グッズはメカボット*1のマグネットを買って大変満足した)

 アニメシリーズの前日譚としてアマトとメカボットの出会い、そして街のヒーロー「メカアマト」の誕生までが描かれる。アマトがメカボットの「トゥアン」(主人)になる経緯では、メカボットと以前のトゥアンとの強固な結びつきと強烈な喪失感が示される。ぐうたらでお調子者のメカボットの抱えるトラウマに、これは確かにアニメのオープニングには重すぎるかと納得。

「マスクマナ」から「メカアマト」への世代交代

 コタ・ヒリールの街のスーパーヒーロー「マスクマナ」から「メカアマト」への継承が描かれる。ただし、父子の世代間の継承の話と見せて、父の世代が築いたシステムに乗らずに自分で仲間と新しいシステムを見つけるのだから、実は継承なき世代交代といえるかもしれない。パワードスーツの中身が特定の個人である必然性はない。複数の人間がスーツの制作過程で自分の能力を付与している。1MDB汚職のような国際金融犯罪も同じで、金を流す仕組みを作るのに寄与した複数の組織や個人の力で成立する。正義のために作られたシステムであってもそのまま継承するのではなく、新しい若者のチームを信じて任せるという、ポスト・マハティール時代のマレーシア映画としても読み解けそうな気がする。

 さらに、血縁による継承ではなく、まったく関係ない子供がたまたま出会ったロボットと結び付いてしまったことがきっかけで、タッグを組んでヒーローになるという設定も注目すべきだろう。父の築いたヒーロー像が息子に継承されることはなく、息子は友人のサポート役としてその力を発揮する。

 ただ、こうしたチームは男たちによって結成され、その存在は家族の間でも秘されており、ホモソーシャルな要素が強いことには注意を要する。特にピアンの父の病室に、ピアンの母の姿すら現れないことは気になる。もっともアニメ版のシーズン2の最終話まで見た範囲では、これからマーラが加わってゆくのかもしれない。

 同じ監督のシリーズ〈ボボイボーイ〉では主人公の両親が不在だ。パパ・ゾラという正義のヒーローは名前こそ「パパ」だが、実際には危機に際して子供たちを前面に出して自分は後ろに隠れるような情けないところがある。主人公はおじいちゃんの家から学校に通い、〈ギャラクシー〉シリーズでは宇宙船のキャプテンやスーパーヒーロー・ラクサマナを代父のようにして成長してゆく。(軍隊的な規律の中に取り込まれてゆく〈ギャラクシー〉より、ダメなところも色々ある悪役のアドゥドゥが友情を通じて成長したり、二元的な性役割から脱したロボットのプローブが活躍するオリジナルシーズン1・2の方が個人的には好きだが)

 〈ボボイボーイ〉のオリジナルシリーズでは悪役のアドゥドゥも子供の姿に造形されており、ボボイボーイのもとからオチョボットを奪おうと攻撃を仕掛けるものの、ほとんど子供どうしの騒ぎにすぎない。慰め役として時々登場するおじいちゃんを除けば、まともな大人がほとんど姿を見せない子供たちの世界から、〈メカアマト〉では子供の活躍を大人たちが見守る世界へと、背景となる社会も成長しているようだ。

バリアフリーユートピア

 車椅子ユーザーの少女マーラは、劇場版でアマトの学校に転校してくる設定。アニメ版では彼女が何でも一人でこなせる存在として描かれていて、日常生活のそこここで遭遇するはずの障壁の存在は捨象されていたが、劇場版の初登場シーンには車での移動中にロボットの襲撃に巻き込まれ、車椅子の車輪が引っかかってしまい脱出できないという描写があった。その際に車椅子が故障して動きにくくなってしまうという箇所も。余談ながら、アニメシリーズの最終話で、マーラがピアンの父のラボの入室暗証番号を知っていたのは、前日譚で一度訪問していたからかと納得。

 マーラについては、転校してきた際も、初めてピアンの父のもとを訪問する際も、誰も彼女が車椅子ユーザーであることには言及せず、先生も特に手助けをしたり生徒に指示したりすることもなく、皆何も聞かずにクラスの一員として受け入れている。その自然さはマレーシア的な理想だろう。実際には通学や校内の移動、緊急時の避難についてマーラにほかの生徒と同じレベルの安全と利便性を確保するためには、皆で共有すべき前提があるはずだが、社会モデルでいう「障害」がすでにクリアされているという理想の世界が映画では描かれている。たとえ現実が追いつくにはまだ時間がかかるとしても、子供たちに向けた作品の中ではっきりと理想像を示すという姿勢の誠実さに、マレーシアの表現者が様々な形で蓄積してきた力を感じもした。

 

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おまけ

★マレーシア要素

 冒頭でアマトがシラットの特訓を受けている。果たしてそんなに禁欲的に武道に打ち込む性格だったのかという点は疑問だが、メカアマトとして戦う時の身体の使い方は、こうやって養われたものだったのかと謎が解ける。

 アニメシリーズではメカボットの好物がカリーパフという設定だが、映画版でもやはりカリーパフは登場。しかしアマトのお母さんが朝からカレーパフを揚げてくれても、まだメカボットは食べ物だと理解していない様子。

 一瞬だけピアンのお父さんのラボでマレー凧が映る。凧のように風力を利用して勝つ伏線か?と思ったが、これは単にマレー文化ファンへのサービスだったらしい。

 コタ・ヒリールの街はマラッカをイメージしてデザインされているとのことだが、アニメ版ではフォーカスされなかった騎楼が今度は生かされている。騎楼を猛スピードで駆け抜けるダイナミックなアクションシーンはアニメならでは。

★〈ボボイボーイ〉シリーズとの関連

 スターシステムというほどではないが、〈ボボイボーイ〉の登場人物がちらっと顔を見せる。プロローグとエピローグに登場する商人バゴゴと、テレビで現場から中継するインド系のリポーターがおなじみのメンバーだ。リポーターは〈ボボイボーイ〉ではプラウ・リンティスの街(たぶんタイピンの付近がイメージされている)で働いていたが、コタ・ヒリールに転勤になったのか? abang, abang となれなれしいバゴゴは、〈ボボイボーイ〉の世界でさんざんえげつない商売をした末に、〈メカアマト〉シリーズの前に刑務所に収容されていたらしい。

 また、メカボットが単なる機械ではなく「パワースフィア」の一つであったことが判明。道理で〈ボボイボーイ〉のオチョボットと基本的な形態が似ているわけだ。メカボットがアマトの家でココアマシーンになりすますはめになるのも、オチョボットがココアショップを手伝っているからというネタだろう。

 

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*1:意地っ張りかつ怠け者で小ずるいところもある割に、抜けていて憎めないキャラクターのファンなのだ

イニゴ・ウェストマイヤー『ドラゴン・ガール』(龍之女、Dragon Girls、2022)

 少林寺付近に多くある全寮制の武術学校の一つ、塔溝武術学校で訓練を受ける少女たちを追うドキュメンタリー。アジアンドキュメンタリーズで配信(2024年1月31日まで)。

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 監督 Inigo Westmeier はブリュッセル出身でロシア・ドイツ・米国で学んだ後、世界各地で制作する映像作家である由。

openwindowfilm.de

 学校は無試験で願書を提出すれば入学可能だが、卒業するのは難しいという。すすんで入学した生徒もいれば、親に持て余されたり、保護者が出稼ぎに行って帰らない「留守児童」の受入先にもなっているようだ。ドラマで軽功を見て、空を飛べるようになりたいという単純な気持ちで入学を志望した子供も。

 寺の中での修行の一環としての武術と、外の学校の集団生活を身につけさせて教養と人格を備えた教育のための武術は、それぞれ異なるように思われる。最後に僧侶が語る「籠の中の鳥が囚われていると思うのは外の人間の見方であり、鳥は餌をもらって楽しく囀り、内心の自由を持っているのかもしれない」という台詞は、学校生活の様子を映された後では皮肉にも響く。

 九歳の晨曦は、七歳で入学して現在は選抜クラスで特訓を受けている。ただ、武術歴のもっと長い他の生徒の間で一位を取るのは難しく、いつもよくて二位という成績。十五歳の少女は農村出身で、一歳半から祖母に預けられている。村を離れたかったわけではないが、学校に送られることになった。両親は出稼ぎに行ったまま、春節にも帰らず長く会っていないという。「中国の子供は本当に孤独、いてほしい時に親はいない」と語る。彼女は晨曦のような期待の星とは異なり、武術の才能は大体ここまでだろうとみなされているらしい。それでも一日一日を続けてゆく。

 ドロップアウトした上海の少女もいる。養女だった彼女は、自分が捨てられた時に生母が添えていた手紙を読んでから二年ほど思い悩み、しだいに問題行動が見られるようになったという。その結果、武術学校に送られたが、結局逃げ出した。背景には激しい体罰や、コーチとのメッセージ記録が問題視されたことがあったというが、父には言えずにいる。一度は学校に戻されたが、結局上海に戻り、ネイリストとして働くようになった。

 学費や卒業後の進路について言及はされない。全国大会に出場するような生徒はその道で生計が保障されるのだろうし、コーチとして武術を続けるか、軍隊に入る道もあるのかもしれない。

 台湾の仏教系慈善団体がマラウィに設立した学校に取材した『アフリカの少年ブッダ』では、中国から来たコーチの体罰に生徒たちが反発する部分も描かれていた。中国で自分が受けたような指導方法をそのまま持ち込めば、当然反発を生むだろうと納得される部分もある。

 

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潘志琪『天国の庭』(胡阿姨的花園、2022)

 坂の街・重慶の「十八梯」は、往時の雰囲気を残す観光地として近年再開発された地区。かつてそこに暮らしていた胡おばさんは敬虔なクリスチャンで、貸金を踏み倒されてゴミ拾いと安宿の経営で生計を立てていた。アジアンドキュメンタリーズで配信(2023年1月31日まで)。

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台湾からは公視+で無料視聴ができるようだ。

www.ptsplus.tv

 ゴミ拾いの傍ら、目についた廃物を収集して庭を造る彼女は、そこでの生活を幸福だと言い、よい思い出ばかりだと語る。他人の保証人になって債務を負った彼女だが、自身もさらに1万元の借金があり、夫とは離婚している。罪深い自分は人並みの生活をしてはならないと、自分のためには金を遣うことなく、二〇年近く残飯で生きている。安宿の経営で得た家賃は右から左に店子に貸してしまい、心配した息子は一緒に暮らそうと何度か持ちかけるが、彼女はスラムでの生活にこだわる。

 息子は息子で、病気のために職を得られずにおり、失業状態がさらに精神的負担となって病躯に重くのしかかっている。母には結婚して息子がいると語っているが、母は一度も嫁と孫に会ったことはない。どういう事情かと思ったら、実は息子は病気の時に支えてくれた彼氏と同居しており、どうしても母には告げられずにいるのだった。

 2015年、快方に向かった息子は長江のクルーズ船に職を得る。貸した金も借りた金ももういいから、ゴミ拾いの生活はやめてくれと頼むが、母は聞き入れない。江西省の故郷を訪ねて、1万元を借りた相手には返済猶予を頼み、貸し倒れの金の回収を試みるが、債務者には会えず、音信不通となった者までいる始末。

 2018年、再開発に伴ってフーおばさんは住み馴れた十八梯を離れ、息子のアパートに同居することになる。「虹色の傘は幸運を招くから」と大事にレインボーパラソルを持って行く母だが、息子については理解できないままだ。彼氏が出て行った寂しさを埋められるかと思いきや、母がやたら拾って部屋に飾ろうとする「がらくた」に悩まされる息子。妻子がいるという話は母を安心させるための嘘だったと明かしたものの、母は「病気だったから別居しているだけ、孫は今年で十六歳になる」との思い込みに固執している。

 胡おばさんの「罪」とは債務を負って家庭を崩壊させたことなのか、それとも原罪を指しているのか、あるいは両方なのかもしれない。罪を負って日々を生きることの尊さを思うと同時に、我が身を省みれば、現在享受しているすべてに自分が値するかのような傲慢な思い込みが刃となってはね返ってくる。

 とはいうものの、狭い家で廃物収集癖は困るなあと、時々声を荒らげる息子の気持ちも分かるのではあった。

オルガ・コロトカヤ『トゥバの喉歌』(SING、2018)

 アジアンドキュメンタリーズで配信。シベリアに位置し、モンゴルに隣接するトゥバ共和国。女性が喉歌を歌うことは、トゥバ文化への冒瀆として禁忌とみなされており、喉歌を歌う女は子孫繁栄という最大の福を得られないとまでいわれていた。それでも90年代以降、次第に女性歌手の活動が広がっている。

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 中でも知られるのは1998年にチョドラー・トゥマット(Choduraa Tumat)の設立したトゥバクィズィ(Tyva Kyzy、トゥバの娘たち)は、女性だけの喉歌グループだ。

tyvakyzy.com

 撮影は5年間にわたり、喉歌を習いにチョドラー・トゥマットのもとを訪れた少女たちが、母となり小学校教師となった姿に加え、海外から教えを請いに訪れる女性まで映されている。

 ホーメイはモンゴル相撲の選手のような体型の男性が歌うものというイメージがあったが、バレリーナのような女性であっても同様に声を響かせるに支障はないらしい。

 芸術大学民族音楽を学ぶ学生たちに、喉歌を教えてはどうかと男性教員に提案するやりとりが映される。女性が歌うことに反対はしないものの、女子学生も実技を教える対象にすることには強い抵抗があるようだ。チョドラー・トゥマットのレッスンを受けに来る女性の中にも、親族には喉歌を習っていることを明かしていない者もいる。

 最後にグループの女性たちがテーブルを囲んで語り合う場面がある。女が歌うことが許されないのは、喉歌が男の役割の象徴のようなものであるから、そこから女たちを閉め出して劣位に置きたいのだと指摘される。女が歌うことと不妊が結び付けられるのは、多くの子供をもうけることが幸福だと信じられている中、女の役割から逸脱すれば報いを受けることになるという脅しであるようだ。チョドラー・トゥマット自身は独身で子供もいないため、女性に歌うことを禁ずる人々によって、「彼女のようになる」としばしばやり玉に挙げられるという。このドキュメンタリーで前面に出ているのは、歌う女としての自主性だが、国家芸術家の称号を得てもなお、伴侶を持たず子供を産まない女として蔑まれることの苦渋も透けて見える。

 

 このドキュメンタリーを観ようと思ったのは、西シベリアのチュリム人のバンド  OTYKEN  の曲を聴いたのがきっかけだった。フォークメタルの流れに位置付けてよいのかどうか、民族衣装に身を包み、伝統楽器を奏でながらシャウトしたりスクリームしたりするパワフルなパフォーマンスだ。喉歌デスヴォイスのような効果を添えているが、やはりその部分は男性メンバーが担っている。女性の喉歌についてのドキュメンタリーが配信リストにあったはず、と思い出してトゥバに行き着いた。喉歌の伝統のある地域では、男性が歌うものとみなされているのかもしれない。


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