『サタジット・レイの世界』(X-Ray: Selected Satyajit Shorts、2021)

ベンガルの映画監督サタジット・レイ(1921-92)の短編小説を元に、舞台を現代に置き換えた一話完結のNetflixオムニバスドラマ。一話60分足らずで全四話。オープニングのアニメーションも、よく見ると各話のモチーフをつないだ凝ったものだ。

 原作となった小説はベンガル語のはずだが、ドラマはNetflixの表示によると元の音声がヒンディー語で、切り換え選択肢としてベンガル語もある。

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1.勿忘草(Forget Me Not)

 Srijit Mukherji 監督、原作は Bipin Chowdhury'r Smritibhrom

 バンガロールベンガルール)出身で、ムンバイの高級マンションに暮らすやり手の若手経営者イプシット・ナイア(Ali Fazal)。初めての子供の誕生と同時に、2019年度の最優秀起業家賞を受賞し順風満帆の日々を送る彼は、コンピュータ並の記憶力が自慢。どんなマルチタスクもこなし多忙な毎日を送っている。

 しかし、バーで出会った女性から、「2017年、30歳の誕生日にアジャンタ石窟群で一緒に過ごした」と聞かされるがまったく覚えがない。「話したくなったら Cave Girl で登録してる番号にかけて」と言われ、直後の着信で自分の携帯にそんな登録があったことに気付く。それからというもの、だんだんと記憶にないことが増え、会議をすっぽかしたり、ガソリンを入れるのを忘れて路上で立ち往生したり、ついには自分の車や自宅すら思い出せなくなる。アジャンタ石窟で一緒に泊まったという女から、写真をたくさん撮ったと聞いたのを思い出し、同僚にデータのバックアップを送ってもらうと、確かに女と一緒の写真が出て来る。パニックに陥った彼は車の事故を起こし、入院することに。

 自分のベビー用品の買い物を女性秘書に依頼するとは公私混同も甚だしいが、共同経営者だから許されるのか? 秘書が同じ商品を自分用に買うのも引っかかるが、実はそれが転換点だったことが後で明かされる。

 かつて妻と婚約中だった頃、イプシットは秘書のマギーとも関係を持ち、堕胎を強要していたことが判明。その相手に自分の妻と子供のための買い物を頼むのだから、無神経にもほどがあるが、彼女とのいきさつは彼にとっては必要な「データ」でも何でもなく、そもそも覚えておくべきこととはみなされていなかった。

 種明かしをしてしまうと、認知症かと疑われたイプシットの症状は、秘書のマギーが復讐のため、同様に彼に恨みを持つ関係者を語らって仕掛けたことであった。写真などディープフェイクでいくらでも加工画像が作れるし、預けたキーで車を移動したりガソリンを抜いておくなんてことは造作もない。記憶が戻るかもしれないとの精神科医の勧めに従ったイプシットは、アジャンタ石窟群を訪れ、ありもしない旅行の思い出をまざまざと目にした瞬間、精神の均衡を失う。病院に彼を見舞ったマギーは、車椅子を押して一つ一つ記憶の部屋を訪れ、彼の残酷さを暴いてゆく。演劇的な舞台転換で、光り輝くような成功者の姿が、視点を変えると途端に別人のように変貌する。

 最初はついイプシットに注目してしまうが、結末を知った上で改めて最初から見直すと、同僚たちのぎこちない反応がイプシットの正体をくまなく暴き出していたことに気付かされる。イプシット役の俳優はもともと長身なのだろうが、旧友やマギーがより小柄に見える撮影と、その長身を車椅子にうずめるようにしてマギーに見下ろされるラストシーンの対比も見事。イプシットと並ぶと、石窟で会ったと言い張る女もマギーもかなり小柄に見えるが、まったく雰囲気の異なる二人が姉妹だというのは、体つきが似ているのがヒントだったのかもしれない。

 マギーとその姉はポルトガル系の姓を持つカトリックの設定。仏教遺跡のアジャンタ石窟から、精神病院を経てカトリック教会で終わるのもユニークだ。映画館のシーンで上映されている映画は、たぶんサタジット・レイのフィルムなのだろう。

2.なりすまし(Bahrupiya)

 Srijit Mukherji監督、原作は Bahurupi

 舞台はコルカタのようだ。冴えない四十男のインドラシシュ(Kay Kay Menon)。売り出し中の舞台女優に入れ上げているが、プロポーズの指輪を「私と寝るのに指輪は要らないのよ」と突き返される。雨漏りする部屋さえも家賃の滞納で追い立てを食う始末。

 追い打ちをかけるように、長く癌を患っていた祖母が亡くなるが、彼に多額の遺産のほか、一冊の書物が贈られる。祖母は家族からは疎んじられていたが、唯一インドラシシュだけが最後まで世話をしたのだった。特殊メイクの専門家だった祖母は、その秘密を綴った本を最愛の孫に遺していた。

 祖母のメイクの魔法で別人に成りかわれると気付いたインドラシシュは、制作会社のプロデューサーになりすまして女優の肉体を買う。さらに、自分を首にしようとしていた上司になりすまして会社の金を動かし、犯罪者に仕立てて復讐する。

 そのあたりで満足しておけばよかったのだが、顔を見ただけで何でも言い当てると評判の宗教指導者のもとを訪れ、変装した姿で欺こうと試みる。しかし、彼の顔が本物ではないと見抜いた指導者は、繰り返し本名を名乗るように求め、白紙を読み上げられないのと同様に偽名では何も分からないと告げる。腹を立てたインドラシシュは、強姦殺人犯として指名手配されている男になりすまし、再び宗教指導者のもとを訪れる。だが、やはり偽名だと見抜かれ、長く祖母の面倒を見たことや、恋人も彼を愛していたが夢を取ったことを言い当てられる。「あなたは善人だ、悔い改める機会を与える」と重ねて言われ、四回名を問われるが、四回とも指名手配犯の名を告げるインドラシシュ。結局、本名を言い当てられた上、「ではそれがお前の顔だ」と宣告される。

 指名手配犯を私刑にかけようとする群集から逃れ、剥がれなくなった仮面をはさみで抉り取ろうとするが……。

 「鏡を拭ったが、汚れていたのは自分の顔だった」という結末はだいたい予測がつく。操られるばかりの存在から、好きなように姿を変えることで神となってすべてを操ろうという思い上がりが罰せられるというのも古典的に感じられるが、その分わかりやすく、第一話の凝った構成と比べると、おそらく原作にかなり近い翻案だと思われる。冒頭のおじの屋敷はちょっとプラナカン建築を思わせる階段に、ステンドグラスがアクセントになっている。中が吹き抜けになっている古い集合住宅や、路地裏の風景、大量の電線が束ねられた配線のように昔ながらのインドのイメージが基調で、サタジット・レイの見た風景と重なる部分がありそう。

 原作は児童文学として書かれた作品ではないだろうか。ドラマでは若干のベッドシーンに加え、自らの顔を切り刻もうとするラストシーン(目を抉り取る手前で映像は切れるので怖い画面は映らない)があるので、やや大人向けかもしれない。

3.騒ぐほどのことじゃない(Hungama Hai Kyon Barpa)

 Abhishek Chaubey 監督、原作は Barin Bhowmick-er Byaram

 ボーパールからデリーへの列車に乗り込んだガザル歌手のムサフィール・アリ(Manoj Bajpayee)。同じコンパートメントに乗り合わせた元プロレス選手に、どこか見覚えがあることに気付く。思い返せば10年前、まだガザル歌手として芽が出ずにいた頃、同じ列車で乗り合わせた相手だった。

 これもまたカットを割らず、シームレスに舞台や回想シーンをつなぐカメラが面白い。列車のトイレの鏡からズームアウトするとステージに立っていたり、客車の廊下ですれ違ったのが過去の主人公でそのままそちらにカメラが移ったり、車内のユーモラスな対話劇に絶妙な起伏をつけている。

 プロレス選手の持っていた「グッド・ラック」と名付けられた金時計に魅せられたムサフィールは、下車間際についそれを盗んでしまう。しかし罪悪感からか、下車駅の構内で倒れて医者に担ぎ込まれ、不治の難病クレプトマニアと診断を受ける。実はムサフィールは貧困家庭の出身で、裕福な友達の家から「一つくらいなくなっても気付かないだろう」とおもちゃを盗み出したのをきっかけに、あらゆる機会を捉えて盗みを働く癖がついてしまっていたのだった。依存の対象を窃盗から詩と音楽に移せばよいとの託宣を受け、改心した彼は、イメージを刷新してガザル歌手として人気を博すに至る。

 プロレス選手はというと、金時計を盗まれてから、失職するし子供は授からないし、男性機能も衰えてさんざんな人生、あの泥棒を見つけたら素手であごを引き裂いてやると気炎を吐く。震え上がったムサフィールだが、幸い相手は自分の正体に気付いておらず、一夜一緒に飲み明かすことに。そしてデリーに着く直前、逡巡の果てに、罪を告白して金時計を返却する。

 このエピソードは主人公がムスリムの設定で、駅を行き交う人々もムスリムが多いようだ。ガザルの詩句はウルドゥー語も混じっているらしい。音楽も堪能できて愉快な一篇。

 金時計を返して終わればただの改心譚だが、まだ一ひねりある。プロレス選手は返された金時計を再びムサフィールに渡し、デリー旧市街のある質屋に行くようにと不思議な指示をする。

 言われた通りに質屋に足を運んだムサフィールは、店主に「盗品だな」と一目で言い当てられる。なんとその店は、窃盗犯が盗品を持ち込み、悔い改めて禊ぎをする場所で、しかもプロレス選手はそこの常連であったことが明かされる。そればかりか、前日に車内でムサフィールが得意げに見せた指輪は、とっくに店に預けられていたのだった……。


4.スポットライト(Spotlight)

 Vasan Bala 監督、原作は同名の Spotlight

 美貌で鳴らした映画スターのヴィック(Harshvardhan Kapoor)は、どこにいても注目の的。ただし、数本主演作が続いたところで、「何を演じても同じ」と酷評され、自分の取り柄は容姿しかないのかと自信喪失気味。

 ちょうどそんな時、撮影で滞在したホテルに、神の視線を持つと崇められる女性宗教指導者のディディ(Radhika Madan)一行がやってくることに。しかもヴィックがもともと手配していた「マドンナが泊まった部屋」を取られてしまう。地元紙の話題もすっかりディディにさらわれ、事務所の社長まで「ディディの足を洗った水を持って来てくれ」と言い出す始末。すっかり面白くないヴィックは、カメラの前でも精彩を欠き、監督に「輝きが薄れている」と指摘される。

 心配して彼を訪ねたガールフレンドも、実はディディに会うつもりでいたことが判明。その名前を聞くのも汚らわしいとヴィックは激怒したものの、「知性派ぶってスタートアップに投資したって、あんたは演技もできないバカでただのルックスがいいだけの俳優にすぎない」と痛いところを突かれてふられてしまう。やけになってクスリをキメたヴィックは、マネージャーの勧めに従いハリウッドのオーディションを受けることにする。

 時を同じくして、ディディの付き人の男は違法薬物の容疑で連行され、信者たちも実はディディの力はまやかしだったのではと気付き始める。だがヴィックは、幻覚の中で自分の「ルックス」(なんと母の姿で現れる)から「ディディに会え」と聞いた声に従い、彼女に面会を申し込む。

 会ってみるとディディは驚くほど普通の若い女で、ヴィックのファンだったと判明。施設で育った彼女は、性暴力の対象になる前に逃げ出して自活し、男たちに見られたら「相手が透明であるように見つめ返す」「魂をのぞき込む」ことを覚え、やがて神の視線と祭り上げられるようになったのだった。

 ディディと話すうちに、ヴィックは自分のスター性が薄れていることを打ち明ける。型通りに祝福を施しながら、ディディは「空港まで送ってくれない」と持ちかける。米国に出てオレゴンに行きたいというディディは、ヴィックに力を与え、手のひらを向けただけで警備員を吹っ飛ばし、ホテルを脱出する。映画の虚構が現実を侵食する設定が面白いが、ヴィックは操られただけで、ぐったり伸びている彼をしり目に、ディディはひとりバイクにまたがって去って行く。

 皆がディディはペテン師だと言い出した頃になって、「彼女はすばらしい女性だ」と考えを改めるヴィック。そしてスターとしての自信を取り戻した彼は、演技にも開眼し、辛口批評家にも絶賛されてハリウッドに進出するのだった……。

 Wikipedia情報によると、ヴィックとディディのキャラクターは、サタジット・レイの二本の映画に基づくものだとのこと。一つはRajshekhar Basuの短編小説"Birinchibaba"に基づく『臆病者と聖者』(Kapurush o Mahapurush、1965)、もう一つは『英雄』(Nayak、1966)。だとすると翻案の手法としてはかなり手の込んだものになる。

 

 サタジット・レイの原作を探してみて、児童向け書籍として90年代にいくつか翻訳されていることを知った。邦訳アンソロジーにはドラマに翻案されたものが含まれているのかどうか、つい原作とアダプテーションを比べたくなる。

 

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