グレゴリー・プロトキン『パラノーマル・アクティビティ5』(Paranormal Activity: The Ghost Dimension、2015)

 シリーズ1・2・3、呪いの印と来て、4は未見で5へ。ケイティとクリスティの姉妹の幼少期を描いたシリーズ3に接続している。

 少女リーラと父母が引っ越して来るところから始まる。クリスマスを迎え、父の弟がやって来て長逗留することに。そこに前の住人が残したビデオカメラと大量のホームビデオらしいVHSテープが発見され、「エロいのはないか」と兄弟はチェックを始める。しかし、88年に撮影されたビデオの筈なのに、そこに映る少女はどうやら2013年現在のこの家の様子を見ているらしく……。

 やがてリーラは夢遊の症状を呈するようになり、「トビー」という存在と会話を始める。彼女とトビーの世界には、両親も割り込むことはできない。

 見えない存在が起こすドアの開閉や物体の落下といった怖がらせ方はさすがにネタが尽きたか、黒い靄が悪魔の姿をとる直接描写に。3Dの特性を考慮した演出だろうが、その分、現象のみが記録されてどんな力が働いたのかは映らない定点カメラの不気味さは薄れてしまっている。クライマックスは手持ちカメラでアクション映画のような緊迫感に。

 ひたひたと迫ってくる怖さに限ればシリーズの過去作品ほどではないものの、ビデオテープに記録された過去が現在を透視していることが分かる瞬間の追い詰め方はぞっとする。

 それにしても、悪魔を召喚し肉体を与えるには、常人の人生一回分の長さでは足りないのだから気の長い話だ。いや、一度の人生で足りない分は、手を伸ばして未来から持って来るというのだから、焦りすぎだというべきか。

 

 

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ウェス・アンダーソン『奇才ヘンリー・シュガーの物語』(Roald Dahl's The Wonderful Story of Henry Sugar、2023)

ロアルド・ダール原作の短篇から四つを短篇映画シリーズにしたもの。邦題は『ヘンリー・シュガーのワンダフルな物語』とも。動きを最小限にした演劇的な構成で、いずれも作家自身が途中で顔を出し、執筆中の書斎から観客に語りかける。

 

『奇才ヘンリー・シュガーの物語』

 書斎でコーヒーとチョコレート、先を思い切り尖らせた鉛筆を半ダース用意し、書き物台を膝に乗せて執筆を開始する作家ロアルド・ダール。彼の語りによってヘンリー・シュガー(仮名)の生涯へと誘われる。

 ヘンリー・シュガー(ベネディクト・カンバーバッチ)は裕福な家の出身で、食うに困らぬ以上にたっぷりと遺産を相続している。しかし妻に分けるのは癪だという理由で独身を貫いている変人。その彼がある日ふと見つけた医師のノートに、透視術の達人の記録を見出す。サーカスの一員として旅回りをしているそのインド人は、ヨーガ行者から修行法を教わってその術を身につけたのだという。ヘンリーもさっそく真似をして、ろうそくの火を見つめて最愛の人物の姿に集中する訓練を始める。特段愛する者のいない彼は、自分の姿を思い浮かべることに専念し、三年半の訓練の後、ついに裏返したトランプの数字と柄を5秒以内に透視する力を身につけた。

 さっそくヘンリーはカジノに赴き、ブラックジャックで大勝ちするが、日々の冥想によってすでに彼は金銭に対する執着を失っていた。バルコニーから札束をばらまいて騒ぎを起こし、警察官に「金を持て余してるなら病院なり孤児院なりに寄付でもしろ、苦労知らずのぼんぼんが!」と叱られた彼は、いたくショックを受ける。

 ロアルド・ダールが依頼されたのは、今は亡きヘンリーの伝記を執筆すること。彼はカジノで稼いだ金でいくつもの病院と孤児院を設立し経営していたのだった。「もう亡くなられたのなら実名でも構わないでしょう」という作家に、ヘンリーの会計士は「ヘンリー・シュガーのままにしてください」と念を押した。

『白鳥』(The Swan)

 これは言いようもなく後味が悪い。原作がダールの残酷童話の最たるものなのだろう。全てをそのまま映像化するのではなく、観客に向けた台詞で説明する舞台劇風の演出で、象徴的な小物で何が起こっているかを示す作り。

 ピーターという少年が近所のいじめっ子につけ狙われ、凄惨な暴行を受けた末、白鳥に変じて空を飛び、母のいる家の前庭に墜落する。

 『シャイニング』の迷路のような高い茅葺きの壁の間をカメラが進んでゆくオープニング。大人の語り手がピーターの身の上に起きたことを示してみせる。途中で彼自身が成人したピーターであると明かされるので、若干の安堵は覚えつつ、最後まで怖くて目が離せない。

 原作は1976年の執筆だが、新聞記事から得た着想を30年間温めていたとのこと。両手両足を縛って線路に放置するとか、柳の木に登らせて枝から跳ぶよう脅し、猟銃で撃つといった子供の残酷性は、戦争で人心の荒廃しきった時期の子供には歯止めとなるものがなかったのかもしれない。

 

『ネズミ捕りの男』(The Rat Catcher)

 ずる賢いネズミの性質を知り抜いたネズミ捕りの男。しかし給油所の仕事では、干し草に出没するはずのネズミがオーツ麦の毒餌をさっぱり食わず、面目丸つぶれとなる。

 ネズミ男はポケットからいつも持ち歩いているネズミとフェレットを取り出し、自分のシャツの中で戦わせてフェレットがネズミを食い殺すところを見せる。続いて、手も足も使わずにネズミを殺せるか賭けようともちかける。思わず1シリング賭けた語り手の目の前で、ネズミと男の対決が始まる……。

 生きた動物の虐待は一切なく、ネズミの人形と、給油所の主人がネズミ役を演じることで処理する安心設計。

 死んだネズミを横目に、赤い唾を吐きながら「ネズミの血くらい何だ、チョコレート工場では俺から買ったネズミの血を原料にしてるんだぞ」と言い放つネズミ男

 彼が去った後、給油所の主人と語り手は、なぜネズミが毒餌にかからなかったのかと考える。干し草の中に何か栄養になるものでもあったのか? 二人の視線の先には行方不明者の捜索ポスターがある。

『毒』(Poison)

 イギリス植民統治下のベンガル。猛毒を持つアマガサヘビが腹の上に這い上がったため、ベッドに横たわったまま身動きが取れなくなった英軍人(ベネディクト・カンバーバッチ)をめぐるドタバタ劇。ベンガル人医師が呼ばれて血清を注射し、クロロフォルムを漏斗でシーツの下に注入して蛇を眠らせようと試みるのだが……。

 ベッドの上で硬直した友人を発見したルームメイトが狂言回しとなって観客に情景を説明する。寝室を中心に演劇的な大道具、またカメラの横移動による場面転換がなされ、アマガサヘビについて作家が書斎から説明を加えるシーンだけが別に挿入される。まっすぐカメラを見る平面的な画面構成は、真上からの俯瞰ショットでも変わらない。

 ベッドに毒蛇が這い込むという熱帯あるある喜劇と思わせて、いったい誰が毒蛇かというツイストに持ってゆく。ヒッチコックも1958年にテレビドラマ化している(Alfred Hitchcock Presents シリーズ)そうだが、Wikipediaのあらすじを見ると、逃げたと思われた蛇が実はまだいたという落ち。ヒッチコック版では舞台をインドに設定する必要はなさそうだが、ウェス・アンダーソン版では、友人の暴言を謝る"I'm sorry."という台詞に対して、医師は植民地インドならではの最後の一言 "You can't be." を残して去る。作家が書斎で書き記した結末は読者の想像に委ねられる。

 

 

ケビン・コルシュ、デニス・ウィドマイヤー『ペット・セメタリー』(Pet Sematary、2019)

 スティーヴン・キング原作。1989年にも映画化されているそうだが、こちらは2019年のバージョン。オープニングは、庭先に停まった車の開いたままのドアから、血痕がポーチを伝って家の中へと続くカット。

 

 

 救急科医師として緊張の続く多忙な生活を送っていたルイスは、自然の中でペースを落として生活しようと、メイン州Ludlowに広大な土地付きの家を買って家族で引っ越す。

 妻のレイチェルは幼い頃、進行性の病気で寝たきりになった姉の存在が恐ろしく、家の中の事故で死なせてしまったことが心に取り憑いて離れない。全身の骨が変形し、ベッドから離れられなくなってしまった姉は、きっと健康な自分を妬み呪っていたはずで、死後もその魂は家の中に残っていると信じている。ルイスはそろそろ九歳になる娘エリーに死についてきちんと説明すべきだと考えるが、レイチェルは死者について娘に聞かれることが耐えられない。

 新居は庭のすぐ先を道路が走っており、猛スピードで長距離トレーラーが疾走する危険な場所であることが分かる。飼い猫も運悪く車にはねられてしまう。

 レイチェルが悲しむことを恐れた夫婦は、猫の死を娘には隠し、いなくなったとだけ告げる。夫が近くのペット墓地に埋葬したはずだったが、やがて猫は戻ってきて……。

 愛する者をあの夜から呼び戻したいという願いが恐怖を呼ぶ「猿の手」型の基本を踏襲している。近所のいかにも怪しい独居老人が、実は心優しい善人と思わせてやっぱり怪しかったというパターンだが、米-カナダ国境地帯の先住民が去った後、その地に棲み続けている「ウェンディゴ」という悪霊が絡んでくる。

 ただし、霊がその姿を直接見せることはないので、クリーチャーものの恐怖映画とは異なり、家族の中に漂うどこか凶暴な気配の不気味さが主だ。

 復讐の連鎖のラストと、フラッシュフォワードのオープニング編集がかなり気に入った(堀井拓磨『なまづま』を連想)。猫のチャーチ(ウィンストン・チャーチルからの命名である由)を演じた長毛種のトラ猫(四匹が出演しているらしい)はかわいいが不気味という猫らしい役回り。ロケ地はカナダ国内のようだ。

 

 

 

金華青『チベット・ガール 翼を求めて』(貢秋卓瑪、The Tibetan Girl、2016)

 30分の短編。アジアンドキュメンタリーズ配信。

 中国・四川省アバ出身の女性歌手。家族の心配をよそに単身北京に赴くが、信仰と生活が一体となった草原の暮らしとはまったく異なる上、漢族の飲食その他の習慣にも馴染めない。かといって、帰郷しても虚しさから逃れることはできないと思いつめる。

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 折よく海外公演の話が舞い込むが、民族籍がチベットだと出国手続きに多くの書類取得が求められる。パスポートの交付も容易ではなく、四川では交付率が低いと聞いて北京での申請を模索するがうまくゆかない。

 妹は高校卒業後、海外留学したいと望んでいるが、中国語による教材が大半で、チベット語教育を受けてきた彼女には英語のハードルが高い。また、チベット語高校の卒業生の場合、入試で出願可能なのは四川・青海・甘粛の三省の大学に限られる(民族大学だろう)。漢語学校出身なら全国に出願できるという。

 結局姉は戸籍のあるアバに帰って申請し、無事パスポートが交付されたところでフィルムは終わる。曖昧にされているが、正面からなら却下されていたのかもしれない。チベット料理店で駐唱歌手として出演する彼女が歌う一曲が「白い鶴よ、翼を貸しておくれ」。

 

 

マラティ・ラオ『ゲシェマの誕生 ー尼僧院の希望ー』(The Geshema Is Born、2019)

 チベット仏教の尼僧たちの姿をインドで取材したドキュメンタリー(クレジットを見るとネパールの尼僧院も撮影に協力しているようだ)。アジアンドキュメンタリーズ配信。

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 「ゲシェ」というのはチベット仏教の学位取得者の称号で、尼僧の場合は「ゲシェマ」となる。2012年まで女性に門戸は開かれていなかったが、ダライ・ラマ14世による決定で尼僧院でも同様に学問を修めることができるようになる。2016年に学位を授与された最初の20人のゲシェマのうち、首席合格のナムドル・プンツォクを中心に、尼僧たちに取材したフィルムだ。

 彼女は幼い頃から出家したいとの志を持っていたが、両親に反対されていた。チベットの女性は長く伸ばした髪をお下げにして垂らすのが普通だが、出家が天命であると示すために髪を短く切り、僧衣と同じ赤や黄色のものばかり身につけていた。結局両親は僧侶に相談し、出家を許したそうだ。

 中国領から亡命してきたのは彼女だけではなく、多くの尼僧が闇に紛れて山を越え、ネパール経由でインド領に着いたが、旅の途中に命を落とした者も多かったという。
現在は尼僧たちの手により立派な僧院が建てられているが、当初はごく簡陋な小屋に寝起きし、夏は暑気に堪えかねて窓を開け放っていた。しかし尼僧の一人が夜中に襲われ、戒律を犯したとして僧院を離れざるを得なくなった。彼女は付近に暮らしていたが、病死したと語られる。

 修行の中で重要な部分を占めているのは問答で、問いかける側は立って一句ごとに手を叩きながらリズム良く質問し、それに対して座した相手が答える形式。その際にいちいち経典を参照したりはせず、そらで即興の問答を通じて論理的に真理を究めるというものらしい。

 また、ゲシェの称号を持つ僧侶から講義を受けるシーンも収められている。様々な質問が飛び交うが、「ヒンドゥー教徒にはどう答えるか」など、外に開かれた議論がなされている。

 ただし、法の枠内ではなく「男の方が記憶力がよい」「尼僧はそれを学ぶ門までたどり着けない」といった言葉で語る男性僧侶がカメラの前に登場するように、女性に対する男性の優越に関してはまだ自明視されている。龍樹の書に見える女性の肉体を不浄とする文言についてダライ・ラマは、聴衆が男たちであったから禁欲を説くためにそう言ったまでだとの見解を示しているものの、学問体系における男性の優位性についてフィルムでは反論は示されない。比丘尼の認定について会議で尼僧の代表が要求する際も、男女平等の観点から言っているのではなくどの法によって禁じられているのか説明してほしい、という問い方をしている。

 監督 Malati Rao はインドの伝統手工芸や、獄中で生育する子供たちについてのドキュメンタリーを制作している由。

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ペマ・ツェテン『羊飼いと風船』(氣球、2019)

 監督自身の漢語小説を原作とするチベット語映画。漢語の台詞は風船を買うわずかなやりとりのみで、エンドロールもすべてチベット語(+英語)。チベット語の世界を漢語で文章にすることを最初の翻訳とすれば、映画はチベット語の音と風景への再翻訳といえるのかもしれない。

 映画は町のチベット語学校で寄宿生活を送る主人公一家の長男が、夏休みを迎えて帰省する一日から始まる。教育費の負担は一家にとって軽くない。学費のために、父は羊を一頭売ることに決めて群れから選び出す。妻のドルカルは「かわいいのに」と不満げだが、「もう二年も仔を産んでない」と夫に言い返される。

 映画の長男のように人口抑制政策下で育った世代は、一家の資本をできる限り注ぎ込み、政府の枠組みによって提供される教育を経由してはじめて同年代の若者と同じスタートラインに立てるのかもしれない。そこには牧畜生活の知恵や、僧院で授けられる学問は介在する余地はない。チベット語世界と外部とのつながりは、英語を除けば漢語による構造を経由することを強いられている。それはペマ・ツェテン監督の経歴において、北京電影学院に学んだことが、少数民族文学・映画という枠内のみにとどまらず中国全土、また世界で受容されるための一つの重要な契機であったろうことも想起させる。

 現金を介さず貸し借りで成り立つ草原の生活と、現金によってアクセスしなければならない町の生活は、同じショットには収まらない。種羊は隣人から借りられても、子供のおもちゃは町に出て現金で買わねばならない。

 「風船」ことコンドームは村の診療所から無料で配布されるが、何度も出産し多くの子供を育てる女たちの負担を軽減する反面、政府の父権によって各世帯の父権構造を揺るがすものだともいえる。妊娠中期の中絶手術に用いられる器具も「バルーン」と呼ばれるそうだが、中国でも経口薬ではなく搔爬による手術が一般的であるようなので、それもタイトルの「風船」に響いているのかもしれない。

 夏休みが終わって長男が学校に戻った日、雌羊は回族(藏回と呼ばれる人たちだろうか)の男たちに買い取られる。事前に取引の約束はしていたようなので、犠牲祭のために毎年生きた羊を買い取っているのかもしれない。それで得た現金から長男の学費が払われ、赤い風船が買われる。チベット語で値段を尋ねる夫に、風船売りは漢語で答える。

 羊の種付けの際、豊かな実りを願って羊の睾丸に赤い布をかけるシーンがある。風船の赤はその色でもあり、僧衣の色でもあり、共産党のシンボルカラーでもあり、映画史的には『赤い風船』(アルベール・ラモリス監督、1956)の残響でもあるだろう。風船も人の命も、その時が来れば訪れ、その時が来れば割れ、あるいは手から離れて大空に舞い上がる。

 ドルカルの妹は、タクブンジャ(作家と同名)という男とかつて恋愛関係にあったようだが、今は尼僧になっている。甥を迎えに行った学校で、異動してきていたタクブンジャと偶然出会い、小説を手渡される。そこには、二人の間に生じた「誤解」が綴られていたというが、妹にその本を見せられたドルカルはかっとなって焚き口にくべてしまう。妹が慌てて引きずり出した時には、半分は灰になっていた。もう仏法しか頭にないという妹だが、灰と化した記憶にはなお苦しめられる。二人の間にどんな「誤解」があったのかは語られず、ただ女は尼僧となり、男は一度は結婚したがまた独身に戻っていることだけが示される。

 人物の表情をほとんどアップで映さず、肩から下のみをフレームに入れたり、離れた場所から身を隠すように手持ちカメラで柱を挟んで撮影する技術にみとれる。町から夫がバイクで帰って来る時、羊の群れが揃って移動し、その先から子供たちが駆け出してくるシークエンスのように、動物や子供の動きを含めた長いカットは相当時間をかけて撮影しているのだろう。DVDや配信でも鑑賞できるが、カメラの背後から聞こえる真言や、ガラス窓越しで聞こえないはずの羊の鳴き声など、サウンドもかなり作り込まれており、映画館の音響のありがたみを味わう。

 

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Rob Sixsmith『アイスコールド 殺人とコーヒーとジェシカ・ウォンソ』(Ice Cold: Murder, Coffee and Jessica Wongso、2023)

 インドネシアの犯罪ドキュメンタリー。2016年にジャカルタのカフェで Wayan Mirna Salihin という若い女性が急死した。彼女の飲んでいたアイスコーヒーからシアン化物が検出され、状況証拠から一緒にいた友人の Jessica Wongso による毒殺が疑われる。裁判の末、オーストラリア籍のジェシカ・ウォンソは有罪、20年の禁固刑が確定した。
基本的に遺族や友人、カフェで事件当日勤務していた店員、ジャーナリスト、検察官、弁護士といった関係者へのインタビューから構成される。

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 動機に関しては結局裁判でも明らかになっていない。幼なじみで一緒にオーストラリアに留学した二人の女性の関係について、死亡したミルナがジェシカの愚痴を聞いて「そんな彼氏なら別れたら」と言ったのが引き金だというのも憶測の域を出ない。
しかし、二十代の美しい女性の死はメディアでセンセーショナルに取り上げられ、報道合戦の趣を呈した。裁判では参考人として出廷した研究者が、被告の顔の特徴を時代遅れの人相学で判断する始末。

 事件の経緯で不審なのは、遺族が遺体を傷つけることに反対したため、検死が十分になされなかったこと。シアン化物は確かに体内から検出されたものの、致死量にははるかに及ばないという。病理解剖をしていないので、正確な死因を判断することはできない。脳出血などで急逝したという可能性も排除できない。犯行に用いられたとされるシアン化物についても、致死量相当を飲料に混入したら、被害者だけでなく店内で意識を失う人が出るだろうとの見方も出されている。薬物の入手経路についてはフィルムで一切言及されなかったので不明。

 インタビューに応じたミルナの父は、ジェシカを犯人だと決めてかかっている。しかしカメラはその腕の高級腕時計や大きな石のついた指輪を故意に大きく映し、成金趣味を強調する。ミルナの墓はキリスト教式に装飾が施された大きなものだ。

 獄中のジェシカへのインタビューは、一回だけ実現したが、その後は許可が下りず中途で終わっている。彼女の出身背景は不明だが、ミルナの家族と同様に富裕層であることは間違いない。弁護士がインタビューに答えているが、ターコイズの派手なスーツで、視覚的にはいかにもうさんくさい。オーストラリア警察からの情報で、ミルナがかつて自動車で建物に突っ込んだり、自傷で通報されたりした記録が残っていること、抗うつ薬などを服用していることも明らかにされ、メディアでは精神疾患へのスティグマが助長されることになる。

 インドネシア人はこの事件を、国民国家の物語を伝えるテレビという装置でさんざん見せられてきた「メロドラマ」の枠組みでとらえ、善なる主役を虐げる悪役が最後には倒される物語を期待するのだというメディア批評が加わる。

 また、被害者も容疑者も裕福な家の出身だという事実がもう一つの憶測を呼ぶ。状況証拠のみで有罪と判断することの是非の問題だけではなく、有罪でも類似の判例からすると量刑が軽すぎるのだという。司法界の贈収賄を示唆してこのフィルムは終わる。

 最終的に、カメラの前で取材を受ける全員が怪しく見えてくるという奇妙なドキュメンタリーだ。ジャカルタでは彼らの服装や言動、カメラの前での身ぶりは違和感なく受け止められる範囲なのか、編集によって強調されているのかは気にかかる。