ペマ・ツェテン『羊飼いと風船』(氣球、2019)

 監督自身の漢語小説を原作とするチベット語映画。漢語の台詞は風船を買うわずかなやりとりのみで、エンドロールもすべてチベット語(+英語)。チベット語の世界を漢語で文章にすることを最初の翻訳とすれば、映画はチベット語の音と風景への再翻訳といえるのかもしれない。

 映画は町のチベット語学校で寄宿生活を送る主人公一家の長男が、夏休みを迎えて帰省する一日から始まる。教育費の負担は一家にとって軽くない。学費のために、父は羊を一頭売ることに決めて群れから選び出す。妻のドルカルは「かわいいのに」と不満げだが、「もう二年も仔を産んでない」と夫に言い返される。

 映画の長男のように人口抑制政策下で育った世代は、一家の資本をできる限り注ぎ込み、政府の枠組みによって提供される教育を経由してはじめて同年代の若者と同じスタートラインに立てるのかもしれない。そこには牧畜生活の知恵や、僧院で授けられる学問は介在する余地はない。チベット語世界と外部とのつながりは、英語を除けば漢語による構造を経由することを強いられている。それはペマ・ツェテン監督の経歴において、北京電影学院に学んだことが、少数民族文学・映画という枠内のみにとどまらず中国全土、また世界で受容されるための一つの重要な契機であったろうことも想起させる。

 現金を介さず貸し借りで成り立つ草原の生活と、現金によってアクセスしなければならない町の生活は、同じショットには収まらない。種羊は隣人から借りられても、子供のおもちゃは町に出て現金で買わねばならない。

 「風船」ことコンドームは村の診療所から無料で配布されるが、何度も出産し多くの子供を育てる女たちの負担を軽減する反面、政府の父権によって各世帯の父権構造を揺るがすものだともいえる。妊娠中期の中絶手術に用いられる器具も「バルーン」と呼ばれるそうだが、中国でも経口薬ではなく搔爬による手術が一般的であるようなので、それもタイトルの「風船」に響いているのかもしれない。

 夏休みが終わって長男が学校に戻った日、雌羊は回族(藏回と呼ばれる人たちだろうか)の男たちに買い取られる。事前に取引の約束はしていたようなので、犠牲祭のために毎年生きた羊を買い取っているのかもしれない。それで得た現金から長男の学費が払われ、赤い風船が買われる。チベット語で値段を尋ねる夫に、風船売りは漢語で答える。

 羊の種付けの際、豊かな実りを願って羊の睾丸に赤い布をかけるシーンがある。風船の赤はその色でもあり、僧衣の色でもあり、共産党のシンボルカラーでもあり、映画史的には『赤い風船』(アルベール・ラモリス監督、1956)の残響でもあるだろう。風船も人の命も、その時が来れば訪れ、その時が来れば割れ、あるいは手から離れて大空に舞い上がる。

 ドルカルの妹は、タクブンジャ(作家と同名)という男とかつて恋愛関係にあったようだが、今は尼僧になっている。甥を迎えに行った学校で、異動してきていたタクブンジャと偶然出会い、小説を手渡される。そこには、二人の間に生じた「誤解」が綴られていたというが、妹にその本を見せられたドルカルはかっとなって焚き口にくべてしまう。妹が慌てて引きずり出した時には、半分は灰になっていた。もう仏法しか頭にないという妹だが、灰と化した記憶にはなお苦しめられる。二人の間にどんな「誤解」があったのかは語られず、ただ女は尼僧となり、男は一度は結婚したがまた独身に戻っていることだけが示される。

 人物の表情をほとんどアップで映さず、肩から下のみをフレームに入れたり、離れた場所から身を隠すように手持ちカメラで柱を挟んで撮影する技術にみとれる。町から夫がバイクで帰って来る時、羊の群れが揃って移動し、その先から子供たちが駆け出してくるシークエンスのように、動物や子供の動きを含めた長いカットは相当時間をかけて撮影しているのだろう。DVDや配信でも鑑賞できるが、カメラの背後から聞こえる真言や、ガラス窓越しで聞こえないはずの羊の鳴き声など、サウンドもかなり作り込まれており、映画館の音響のありがたみを味わう。

 

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