ナディーン・ラバキー『存在のない子供たち』(Capharnaum、2018)

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『キャラメル』のナディーン・ラバキーによる劇映画。

レバノンのスラムに暮らす少年ゼイン。12、3歳だろうという医師の所見より幼く見える彼は、傷害罪で5年の刑を宣告され、少年刑務所に収監される。両親を「自分を生んだ罪」で告訴するに至るまでに彼が経てきた、身分証も家族の愛情も希望もない生活。

ゼインの一家は子だくさんだが、ひどく狭い劣悪な住宅で暮らしており、ベッドで眠ることもできず床に雑魚寝する状態。子供たちは誰も学校に行っておらず、両親の脱法薬物の加工を手伝ったり、彼らに間貸ししている雑貨屋の配達を手伝ったりして日銭を稼いでいる。

やがてゼインのかわいがっている妹ザハルに初潮が訪れ、彼女に目を付けた雑貨屋の男と強制結婚させられてしまう。ゼインは家出して、たまたま知り合ったエチオピア出身の若い女性のところで、昼間赤ん坊の面倒を見ながら留守番することになるのだが……

エチオピア女性はレバノンで家事労働者として働いている時に妊娠したが、子供と引き離されることを恐れて脱走し、不法滞在状態にある。ゼインの一家がどういう経緯で国籍を取得できていないのかは語られないが、家族の誰も身分証を持たず、医療すら受けられない状態。

子供を学校に通わせれば支援が受けられることは両親も知っているが、家賃の支払いもままならない状態では、子供の労働力を当てにせざるを得ない。難民支援の物資配給所にはゼインも足を運ぶものの、そこから先の福祉にはつながることがないまま、決定的な事態に至ってしまう。後半は『誰も知らない』のように、子供が子供を世話する展開になり、かなり冷や冷やさせる。赤ん坊の身に今にも何か起こりそうで通して見続けることができず、休みながら少しずつ観た。

さらに、面倒を見るだけの力もないのに子供を産むな、という批判は、特に当事者の子供の台詞として語らせることで、低所得者や難民への憎悪を煽る危険な言説につながりかねない側面も持つだろう。

ただし、経済的にも滞在資格としても不安定でありながら、子供を守ろうとするあまりに危険な橋を渡るエチオピア女性を登場させることで、「産むな」という言葉の暴力性も浮かび上がる。観客ひとりひとりの相対的な豊かさも、こうした誰かの権利を少しずつ奪った上に成り立っているのかもしれない。

映画は画面いっぱいに広がるゼインの笑顔で結ばれ、一律に生を否定する反出生的な態度からは距離を置き、生まれ(させられ)た者の生は肯定しようとしているように見える。プロチョイスかプロライフかという二者択一の問題でもなく、産めない・育てられない環境を強いる構造的暴力が問われている。

存在のない子供たち [Blu-ray]

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