アンソニー・チェン『イロイロ ぬくもりの記憶』

 新宿・K's Cinemaにてアンソニー・チェン監督『イロイロ ぬくもりの記憶』(日本版公式シンガポール版公式)。
 IMF通貨危機のさなかのシンガポールで、小学校で次から次へと問題を起こす息子の家楽(許家樂)に手を焼いた父(陳天文)と妊娠中の母(楊雁雁)は、メイドを雇って面倒を見てもらうことにする。やって来たのはフィリピン出身のテリー(アンジェリ・バヤニ)、28歳。しかし家楽は彼女が気に入らず、色々と嫌がらせをする。だがテリーもよんどころない事情で乳飲み子を妹に預けて出稼ぎに来ており、絶対に首になるわけにはゆかない。仕事で日中は不在の両親に代わり、時に厳しく、時に優しく家楽の面倒を見るうちに、次第に二人は打ち解けてゆく。どうやら家楽の問題行動は、かわいがってくれた祖父が亡くなった上、臨月の母はいつも苛立っていて、頭ごなしに叱りつけるばかりで甘えさせてくれないことにも起因しているらしい。小学校では日常的に体罰が行われ、先生たちも彼の話には耳を傾けてくれない。同時期のシンガポールを舞台にした翁弦尉の短篇小説「島人」(『游走与沉溺』、新加坡八方文化创作室,2004所収)にも、小学生が罰として太陽の照りつける真昼に校庭を十周走らされて倒れるという描写があり、少なくともこの時期まで体罰は珍しくなかったようだ。
 押し寄せる不況の波に、母の会社では次々とリストラが行われ、父は父で営業職を辞めたものの妻には言い出せずにいる。高ストレス社会としてのシンガポールの側面は、胡恩恩(イェン・イェン・ウー)&呉栄平(コリン・ゴー)夫妻による『シンガポール・ドリーム』(Singapore Dreaming/美満人生)*1にも描かれていたとおり(こちらにも楊雁雁が、実父の葬儀の間にも上司に呼び出されてコピーを取らされる秘書の役で出演していた)で、そこから抜け出そうと庶民が夢を託すのはやはり同じく宝くじ。また、エリック・クーの『12 Storeys (十二樓)』(1997)や『Be With Me』(2005)にも飛び降り自殺のシーンがあったが、高層ビルの多いシンガポールでは最も思いつきやすく誘惑に駆られやすい方法であるようだ。
 フィリピン人家事労働者を主人公にしたシンガポール映画には、ケルヴィン・トン(Kelvin Tong/唐永健)の05年のホラー『メイド/冥土』(The Maid /女傭)もあるが、旧暦七月の鬼月に見られる華人の習俗を他者の目から描いた『メイド/冥土』に対し、『イロイロ』ではシンガポール社会で出稼ぎ家事労働者が直面する様々な問題がさりげなく描かれる。家にやってきてすぐ、パスポートを預かると言われて取り上げられてしまうのがまず一つ。雇用主の虐待に耐えかねて逃げようとしても、パスポートを取られてしまって帰れないというケースもあるという。それから洗濯物の干し方もその一つで、窓から垂直に外に向かって物干し竿を突き出すように掛けるのだが、シンガポールの新聞を見ていると慣れないメイドさんが洗濯物を干す際に誤って転落するという事故をしばしば目にする。
 高級マンションではメイド部屋が備わっているようだが、この映画の一家にはそんなものはなく、息子の部屋で寝起きすることになる。腕を骨折した彼に入浴の介助をする場面もあるが、メイド役のアンジェリ・バヤニが小柄なせいもあるだろうが、ほとんど身長のかわらない男児とのやりとりは、ぎりぎりのところでほほえましさの範囲に踏みとどまっているように感じられる。隣の家のメイドに「まだ28歳なら長く働けるわね」と言われるシーンがあるが、息子と同じ部屋に寝起きできるのはせいぜいあと数ヶ月なのではないか、と余計なところに気を回してしまった。以前に読んだ Ricky Low《 Clean Sex 》(アンソロジー『Best of Singapore Erotica』、Monsoon Books、2006)という小説は、インドネシア出身のメイドに入浴させてもらいながら性の目覚めを体験した華人男性の物語だった。同様の経験を持つシンガポール男性は少なくないのでは。
 映画に話を戻すと、一つ一つのエピソードには既視感があり、それだけシンガポールでは身近な出来事が織り込まれているのだろう。他者が外から家族の中にやって来て、成員間の関係を変えて去って行くというパターンもよくあるものだし、意外な驚きは無いながらも、思わず登場人物ひとりひとりに感情移入してしまうところがあった。テリーのフィリピンの家族について、あまり踏み込んだ描写をせず、電話でのわずかな会話から推測される程度にとどめられているのもよかった。
 フィリピンの出稼ぎ労働者を主人公にした映画として、マレーシア華人の何蔚庭が台湾で撮った『ピノイ・サンデー(台北星期天)』(2009)、日本に出稼ぎに来てなぜか特撮番組のスーツアクターになってしまう父親を描いたミコ・リヴェロ(Miko LIVELO)の『ブルー・ブースタマーンティー(Blue Bustamante)』(2013)を併せてメモしておく。

原題:IloIlo
中国語題:爸媽不在家
制作年:2013年
制作国:シンガポール
時間:99分
言語:英語、華語(普通話)、福建語、タガログ語
監督:アンソニー・チェン(陳哲藝/Anthony Chen)
脚本:アンソニー・チェン
製作:Ang Hwee Sim、Yuni Hadi
出演: 許家樂(Jialer Koh)、アンジェリ・バヤニ(Angeli Bayani)、ヤオ・イェンイェン(楊雁雁/Yann Yann Yeo)、陳天文(Tian Wen Chen)、シファン・シャオ(Sifan Shao)
撮影:ブノワ・ソレール(Benoit Soler)
編集:陳合平(Hoping Chen)、張佩詩(Joanne Cheong)

メイド 冥土 スペシャル・エディション [DVD]

メイド 冥土 スペシャル・エディション [DVD]

 

*1:2007年の東京国際映画祭で上映されている。