李玉『ロスト・イン・北京』

ロスト・イン・北京 [DVD]

ロスト・イン・北京 [DVD]

 

 大阪アジアン映画祭、11本目はシネ・ヌーヴォで『ロスト・イン・北京』(苹果)。特集企画「Director in Focus:リー・ユーの電影世界」の一本で、2007年のベルリン映画祭出品時に性描写が話題になった記憶のある作品だ。
 足ツボマッサージ店で働く蘋果(范冰冰)には夫(佟大為)がいるが、独身者のみを雇用するという内規のため、店には隠している。夫婦仲も悪くなく、住宅事情の悪さはさておき身体の相性も上々だ。しかし、同僚の小妹(曾美慧孜)が客のセクハラに怒って爪切りで反撃したために解雇されてしまい、やけ酒につきあったことが蘋果の運命の分水嶺となる。酩酊した彼女は部屋を間違え、よりにもよって社長(レオン・カーファイ)室のベッドでしどけなく眠りこけてしまう。
 「マッサージ店の社長が従業員を強姦」という言葉から連想される情景と、スクリーンに映るそれはだいぶ異なる。揺り起こそうとした社長に、酔った蘋果は夫と間違えて「ダメよ、昨日もしたばかりじゃない」などと口走り、我に返った時にはすでに取り返しのつかないことになっていた。おまけに、窓ふきをしていた夫に一部始終を見られていたという間の悪さ。
 夫は社長に慰謝料の交渉にゆくが、彼女の妊娠を知った社長は、血液型で子供の父親を判断し、自分の子なら引き取って育てると言い出す。蘋果と社長夫人(エレイン・ジン)の同意のもと、契約書を交わしたものの…。
 佟大為演じる夫の、事ここに至ったら少しでも余計に“佔便宜”してやろうという図々しさ、その割に思い切りの良くない小物ぶりがリアルだ。しかし、全て見終えてから、これはひょっとして妻と関係を持った社長を夫が勝手に脅したのではなくて、カメラに映っていないところで夫婦が共謀して社長に美人局を仕掛けたのでは、という疑念が胸にわき上がってきた。もちろん、カメラに映っている蘋果の姿を見る限り共謀した様子はないのだが、周囲の思惑の中でただひたすら憂いに眉を曇らせているだけの彼女の姿には、本当はあんたそんなタマじゃないんじゃないの、と言ってみたくなる。
 酔った小妹が「北京はこんなに大きいのに、こんな小さな私の居場所もないなんて」と慨嘆する通り、北京に容れられないと感じている男女が起死回生をかけて勝負に出る物語でもあるが、同時に女たちの「転落」への恐怖が透けて見えるようでもある。
 山崎まどか『女子とニューヨーク』では、146人(うち129人が女性)の死者を出した1911年のトライアングル・シャツ・ウエスト工場火災事件*1 が次のように語られている。

 都市に働きに出た女性たちとファッションの流行、摩天楼を駆け上がってそこから転落していく女性たち、様々な原型をこの事件に見ることができます。華やかに見えても、都会で働くシングル・ガールたちはみんなシャツ・ウエスト工場の少女たちと同じなのです。後ろ盾がなく、たやすく都市に飲み込まれ、消費されていってしまう。ニューヨークの摩天楼を作るのは男たちです。エンパイア・ステート・ビルディングやフラットアイアン・ビルディングといったニューヨークを象徴する高層ビルディングの建設はそれだけで物語になりますが、それはあくまでも男たちのストーリーであり、女たちの物語はそこからの転落にあるのです。

「『恋は邪魔者』の文化史」(91−92頁)

 『ロスト・イン・北京』でも、夫の仕事が窓ふきという設定もあり、高さを意識させるシーンがいくつも見られる。屋上で2人が蘋果の子供をどうするかを相談する場面に至っては、側にいた人物が手すりの外へあっけなく姿を消してしまう。隣の誰かがいつ何の痕跡も残さずに消えても不思議はない土地なのだ。蘋果はマッサージ嬢として、夫は窓ふきとしてビルを出入りするが、どちらもいつ転落するとも知れぬ不安定な境遇である。北京とニューヨークが異なるとすれば、都市に飲み込まれかねないのはシングル・ガールだけではなく、後ろ盾を持たない男たちもまた同様であるという点かもしれない。とはいえ、蘋果夫婦よりもいっそう危ういのが、身体ひとつでの世渡りを迫られた小妹だ。彼女はマッサージ店を解雇され、まさに都市に飲み込まれてゆく。物語の筋書きそのものより、北京という都市から疎外され、剥落してゆく人々の姿をうつしとった点で印象を残す映画だ。

女子とニューヨーク

女子とニューヨーク

 

原題:蘋果
英題:Lost in Beijing
製作年:2007
制作国:中国
時間:109分
言語:中国語、広東語
プロデューサー:方勵(ファン・リー/Fang Li
監督:李玉(リー・ユー/Li Yu
脚本:方勵、李玉
出演:梁家輝(レオン・カーファイ/Tony Leung Ka Fai)、范冰冰(ファン・ビンビンFan Bingbing)、佟大為(トン・ダーウェイ/Tong Dawei )、金燕玲(エレイン・ジン/Elaine Jin)、曾美慧孜(ツアン・メイホイツ/Meihuizi Zeng
音楽:ペイマン・ヤズダニアン(Peyman Yazdanian
撮影:王碰(ワン・ユー/Wang Yu
編集:曾建(Zeng Jian

*1:この事件はパク・チャンギョン『浄土アニャン』(感想)というモキュメンタリーの中で取り上げられた韓国の工場火災事件と極めて構図が似ている。おそらく世界中の縫製工場で、逃げ道をふさがれた女性労働者が命を落としているのだろう。