ボルヘス『八岐の園』

伝奇集 (岩波文庫)

伝奇集 (岩波文庫)

 

 今日がボルヘスの誕生日であったことをGoogleに教えられる。

 杖を持ったボルヘスが眺めているのは、それぞれ彼の小説に出て来る建造物ではないかと思うが、どれだか分かるほど読んでいない。中央左の円形の建物はバベルの図書館かとも短絡的に思ったものの、六角形なので違う。全集をひっくり返して調べれば突き止められるかもしれないが、今日はとりあえず手元の文庫から建築に関係のありそうな、「八岐の園」一篇だけを読んでみることにする。
 青島の大学の元英語教師、俞存の陳述書という形で物語は始まる。彼はイギリスでドイツのスパイとして活動しているが、リチャード・マッデン大尉に正体を見抜かれ追われている。列車に飛び乗った彼は、スティーヴン・アルバート博士という人物を訪ねる。漢学者である博士は、崔奔という文人が設計した庭園「八岐の園」を復元し、さらに崔奔の遺した小説の草稿を整理・翻訳し、それが「永遠に、数知れぬ未来に向かって分岐しつづける」時間そのものをテーマにしていることを解き明かしていた。奇しくも俞存はこの崔奔の曾孫に当たる男であった。しかし、そこにリチャード・マッデン大尉が現れ、未来は既に分岐していたことが明らかになる。俞存は博士を射殺し、新聞で報じられることによって博士の名である「アルバート」すなわち「アルベール」という爆撃すべき都市の名をベルリンに伝えることに成功したのだった。
 「八岐の園」は中国語では“小徑分叉的花園”と訳されている。『汚辱の世界史』のように何か典拠があるのかとも疑ったが、崔奔というのは全くの架空の人物であるようだ(中国語訳では崔彭となっている)。
 スパイ小説が急に時間をめぐる哲学的考察となり、どこに着地するのかと思いきや、きっちりミステリーとして回収され、なぜ主人公がスティーヴン・アルバート博士のもとを訪ねたのかにも答えが提示される。さらに、この崔奔の書いた小説というのが、筋も何も明らかではないのだが、なぜか読んでみたい気になるほど魅力的に語られる。もっとも、複数の未来を設定するというのは、今ならフリーシナリオシステムのゲームで再現できそうではあるが。コルタサルの『石蹴り遊び』もそうだが、非常に電子書籍向きの構想にも感じられる。
 しかし、ボルヘスってこんなに面白かったっけ?と驚いた。以前に読んだ時は、随分もてあまして、難解だという印象しか残らなかったが。何のことを言っているのか初読では意味不明であった台詞が、実は伏線になっていたりするので、何度も戻りながら時間をかけて読まないと面白くないのかもしれない。