コンラッド『闇の奥』

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

闇の奥 (光文社古典新訳文庫)

 

 何ともはっきりしない、幾重ものフィルター越しにのぞき見るようなもどかしさがある。物語の筋としては、ベルギー国王の私有になるコンゴ自由国で、語り手のマーロウが象牙輸出を行う貿易会社の雇われ船長としてコンゴ川を上ってゆき、病に倒れた出張所責任者クルツの最期を見届けるというもの。クルツはどういう手段でか原住民に慕われるようになり、王として君臨し、彼らを使って象牙の略奪を行っている。おまけに会社の指示に背き、象牙は部下の社員に支社へ運ばせて、自分は原住民とともに再び無人の出張所に戻るという始末。
 船の修理に必要なリベットは、届けようと思えば届けられる状態にあるにもかかわらず、どういう理由でだか届かない。最後に社員にしつこく要求し、「知能の高い社員なら何とか算段するはずだ」という脅しめいた文句でようやく届けられたようなのだが、リベットが届いて船の修理をする箇所は語りから省かれ、次はもうコンゴ川を遡航するところに話が移っている。一事が万事そういった調子で書かれているので、二度読んでようやく話の全容がつかめた。
 労働力として用をなさなくなった黒人たちが木立の中に放置され、死ぬのを待つ様子や、やたらとごろごろ現れる死体など、次々にひたすら地獄絵図が映し出されるという具合。語り手のマーロウはその光景に対して善悪の基準を持ちこむことはなく、おぞましさを感じてはいるのだろうが特に非難するでもなく、そういうものとして眼前の出来事を受け止めているようである。

そう、俺はあの男の話をたっぷり聴いたんだ。俺の考えが正しかったこともわかった。声のことだ。クルツとは要するに一つの声だった。俺はそれを聴いた――その声を――彼の声を――ほかの声も聴いた――誰も彼も、要するに声だったんだ――あの旅の記憶そのものも、俺のまわりで捉えどころのない声として漂っている。愚かしく、凶暴で、浅ましい、野蛮な、あるいは単純に卑劣な、およそどんな意味も持たない一つの大きなお喋りの、今にも消えてしまいそうな空気の震えとして残っている。

 この「声」にしても、マーロウの口からクルツの台詞が直接語られることはほとんどなく、最後の日々に彼がマーロウに何を話したのかは想像するしかない。
 「自制心」という言葉が繰り返し用いられる。船員として雇った黒人たちは食人の習慣を持つが、飢えに苦しめられながらもマーロウたちを殺して食べようとはしない恐るべき「自制心」を発揮する。一方、「クルツと同じ」く「自制心がなかった」操舵手は、襲撃を受けて思わず鎧戸を開けて反撃しようとし、岸から槍に突き刺されて命を落とす。クルツは「魔境」で自分の魂の奥底を覗き込むうちに、ミイラとりがミイラになるようにして偏執的な密林の王と変じてゆく。自制心の欠如とは致命的な事態をもたらすものとして描かれるが、そうした人々についてマーロウはむしろ温かい感情をもって遇している。
 クルツの最後をもってしても物語の幕は閉じられず、マーロウは形見の写真と手紙を持って彼の婚約者を訪ねる。このいかにも善良で貞淑な女性が信じていた、高邁な理想を負う素晴らしい人格、というクルツ像こそが、彼が最期に遺した言葉のように「恐ろしい!恐ろしい!」ものかもしれない。このエピローグまで読み進めると、不意に物語全体が、まるでごく脆い薄紙でこしらえた家のように感じられる。指でひと突きするだけでたちまち崩れ落ち、ばらばらになってしまうような。マーロウは婚約者の抱き続けるクルツ像を毀すことなく辞去するが、それは同時に植民地経営を後方で支えるナイーヴな善良をそのままにした、ということであるのかもしれない。