ハニ・アブ・アサド『パラダイス・ナウ』(2005)

 舞台はヨルダン川西岸の町、ナブルス。若い女性(ルブナ・アザバル)が街の入り口、検問所の前で車を降りる。イスラエル兵士はぶしつけな視線を浴びせ、乱暴にバッグの中を引っ掻き回す。彼女が身分証を受け取ろうと手を出すと、兵士は無表情のまま嘲弄するように、わずかに手を引っ込める。次第に、彼女スーハは殉教者の娘で、NGO活動のために父の故郷にやって来たことがわかる。フランスなまりのアラビア語は、フランスに生まれモロッコで教育を受けたためだ。

 

パラダイス・ナウ

パラダイス・ナウ

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 次にスーハが姿を現すのは、自動車修理工のサイード(カイ・ナシェフ)とハーレド(アリ・サリマン)の店だ。スーハとサイードは惹かれあうものを感じる。だがその日、自爆攻撃志願者をまとめる組織から指示を受け、サイードとハーレドは翌日自爆攻撃に向かうよう告げられる。

 二人は殉教の準備として、ビデオカメラの前で声明文を読み上げる。しかしカメラの故障で何度も撮り直し、やっとうまくスタートしたと思ったら、組織のリーダー達がバクバク物を食べ始める始末。ハーレドは苛立ち、浄水フィルターの安くていいのを見つけた、母さん、今度はあれを買うんだよ、とカメラに向かって言い出す。

 結婚式に参列するふりをしてスーツを着込み、腹に爆弾を巻いて二人はイスラエルへの国境を越える。しかし予想外の邪魔が入り、ハーレドは再びパレスチナ側に戻る。サイードは機を見てイスラエル側に行き、計画どおりバスに乗り込もうとする。しかし、母親に手を引かれた幼児を目にして思いとどまり、再びパレスチナ側に戻る。二人は互いを探して町じゅうを駆け回り、途中でスーハに出会う。サイードは父が密告者であったことを彼女に告白し、ひとり墓場へ向かう。ハーレドは戻ってきたスーハにサイードの行方を聞き、二人は車で追う。車中、ナブルスの悲惨な状況を訴え自爆攻撃を主張するハーレドに、激昂したスーハは猛烈な反論を繰り広げる。他にも方法はある、と。二人はサイードを見つけ、ハーレドは彼を組織に連れ帰る。

 リーダーはサイードを別室に連れ込んで失敗をとがめ、実行役から外すと告げる。しかし、密告者の父を持つサイードは、必死に抗弁する。その台詞は、弱さにつけこまれ密告者となる人間を生む、パレスチナ内部の問題も告発しているようである。結局彼は計画への再度の参加を許され、再びハーレドとイスラエル領へ乗り込む。

 知らない俳優ばかりの映画というのは、時々脇役の顔を覚えきれず、人物の相関関係が解らなくなってしまうことがある。四方田犬彦 『パレスチナ・ナウ』にてあらすじと背景をある程度知ってから観たので、幸い最後まで混乱せずにすんだ。『ガーダ パレスチナの詩』では家をブルドーザーで潰されたり、逃げる子供を後ろから撃ったり、というイスラエル軍による破壊の具体的ディテールが描かれていたが、この映画では登場人物の台詞を通してその一端が語られるだけだ。それも、難民キャンプの生活であったり、街から一歩も出られない息苦しさ、将来への希望の無い状況などであったりと、イスラエル軍の残虐行為を告発するというより、行き詰まったパレスチナに焦点が合わされているようだ。そして、「世界は遠巻きに眺めているだけだ」という台詞*1

 再度の攻撃に二人が旅立ったあとに、スーハは一人で家のテーブルに向かい、殉教者を称えるポスター用に撮影されたサイードの写真を見つめる。そしてそれを裏返して置き、顔を背ける。ラストシーンでは、サイードの目にカメラがどんどん引き寄せられてゆく。高まる緊張感の中、一瞬おいて画面が真っ白になる。

 映画館でゆったり座ってただこの映画を眺めているということに、どうしようもない矛盾を感じずにはいられない。

 

 

 

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*1:ちょうどアマドゥ・クルマの『アラーの神にもいわれはない』にも良く似た台詞があった。「領土も山分け、住人も山分け、なんでもかでも追いはぎどもが山分けしてるっていうのに、そんなやりたい放題を世界じゅうがほったらかしにしてるのさ。」そして、「『人道的介入』とは、よその国に兵隊を送りこんで、そこにくらす罪のない貧乏人をぶっ殺せるように諸国がさずかる権利のこと」という痛烈な批判もあった。