『堅持して悔いなし―陳若曦自伝』

堅持して悔いなし―陳若曦自伝

堅持して悔いなし―陳若曦自伝

 

 台湾出身の作家、陳若曦の『堅持して悔いなし―陳若曦自伝』(澤田隆人訳、吉田重信監訳、西田書店、2012)。
 台湾大学外文系在学中に白先勇らの文芸誌『現代文学』に参加していた彼女の交遊録は壮観だが、アメリカ留学後に台湾に戻らず夫と共に人民共和国に赴くという経歴には驚いた。中国から台湾にやって来て、そこからアメリカやカナダに移住というルートを辿った文学者は珍しくないが(アイオワ大学の国際創作プログラム(International Writing Program)の創設者である作家の聶華苓や、バンクーバー在住の詩人・洛夫など)、日本統治下の台湾に生まれて*1共産政権樹立後に大陸に渡るという例はあまり無いのではないか。彼女も留学した時は台湾に戻って大学に職を得たいと思っていたようだが、留学先で知り合って結婚した夫の主張に心を動かされて中国行きに賛成した。夫も台湾留学生だが福州出身で、14歳の時に国民党員の父と共に渡台したという。
 世代は少し上だが、大陸生まれで国民党の要人を父に持つ齊邦媛の『巨流河』では、初めて中国の作家たちと同席した時の緊張感が綴られており、共産党に対しては恐怖というより頭から受けつけないような感覚が窺えた。それに対して、陳若曦の夫は国民党員(張学良の監視役を務めていた由)の息子でありながら、共産政権下で人々が貧しい暮らしに苦しんでいるというのは「国民党の醜い宣伝」と言い切る。その結果、夫婦で「新中国」に移り住んだのだが、その時期たるやなんと66年の十月、文化大革命紅衛兵が街に出て「破四旧」の「革命行動」を起こした二ヶ月後。「社会主義祖国への熱愛」という気持ちで足を踏み入れるや、「ブルジョア知識分子」と見なされて一挙手一投足に神経を使う日々が始まる。
 そういえば法学者の瞿同祖『中国法律与中国社会』(商務印書館、2010)附録の王健による文章に、“1965年,已在海外漂泊了二十多年的瞿先生,怀着与家人团聚和投身祖国建设事业的美好心愿,辞职回国。但是不久即褰上国内“天下大乱”,于是,一切希望都化为泡影”とあって、何だってそんな時期に帰国したのかと最初は思ったが、よく考えてみれば、国内に家族がいれば政治状況に関係なく帰りたいときに帰るのに何もおかしいことはないわけだ。しかしこの時期に、中国から移住して何代かになる海外華人でも「祖国の建設事業に身を捧げる」つもりで「帰国」した人もいたのだから(シンガポールの英培安『騒動』にもそういう人物が登場した)、外からでは情勢を読むのがよほど難しかったのだろう。
 陳若曦夫婦は結局73年冬に香港から出国、カナダを経てアメリカへと居を移す。その間に創作を続け、さらに80年には美麗島事件を受けて弾圧に対する抗議の書簡を蒋経国に渡しに行くなど、政治運動にも関与するようになる。
 だが、私の場合いちばん気になるのは作家たちとの交友だ。張愛玲については幾度か言及されるが、どことなく微妙な感情が表れているように思う。61年に台湾を訪問した張愛玲を案内したひとりに陳若曦もおり、その時の様子が細かく記されている。また、後年バークレーで中国研究センターの研究員を務めたが、奇しくもそこには張愛玲も在籍したことがあった(しかし研究論文は出せなかったようだ)。作家として招かれたのは張愛玲と自分だけ、と考え「作家として恥ずかしくないように」と自分を鼓舞して成績を上げようと努めたという。
 ところで、訳書には固有名詞の誤記や前後の辻褄の合わない箇所が幾つか見られる。固有名詞に関して気づいたところをついでに記しておく。

  • p60 戦後も創作活動を続けた台湾籍の作家「龍宗瑛」→龍瑛宗
  • p76 王鍞和→王禎和
  • p78 張愛玲の書いた「反共をテーマとする「挽歌」」→「秧歌」
  • p81 王蘭熙 →張蘭熙
  • p184 王得時→黄得時

*1:38年生まれの彼女は日本降伏時に学齢に達しておらず、日本語教育は受けていない。