パトリック・シャモワゾー『クレオールの民話』

クレオールの民話

クレオールの民話

 

 先日の莫言の受賞スピーチ「講故事的人」(中国語原文)を読んで胸が悪くなったのを洗い流そうと、シャモワゾー『クレオールの民話』(吉田加南子訳、青土社、1999年)を読み始めた。
 「生きのびるための物語」と題された序文から抜き書きしておく。

われわれの物語と語り部は、奴隷制度と植民地化の時代に生まれた。これらの物語とその語り手の担う意味の深さは、アンティール諸島の歴史の基底をなすこの時代を座標軸とすることによって、初めて明らかになる。われわれの語り部は、鎖につながれ飢えに苦しむ者、恐怖に怯えつつ生きのびようとしている者の、声を通しての代表者だ。(10頁)

クレオールの民話が語っているのは、恐怖が今ここにあるということ、世界のどんな微少なひと切れも恐ろしいものだということであり、その恐怖ごと生きなければならない、ということである。力を見せてしまうのは敗北の前兆、懲罰の前兆であるということ。弱い者は計略や回り道、忍耐、決して罪ではない切り抜け策を繰り出すことによって、強い者に勝つことができる、あるいは力というものの首根っこをつかむことができる、と語っている。クレオールの民話は、支配している価値体系に泥をはねかける。最も弱い者の、反道徳という鶴嘴、否、道徳という観点を欠いた、ありとある鶴嘴で。だが「革命」への呼びかけはない。これらの物語における解決策は、集団とは関わらない。主人公は単独で、自己中心である。自分一人が逃げ出すことを考えている。それゆえここには、エドゥアール・グリッサンが提言するように、象徴的な迂回路があり、反価値あるいは反文化の体系があると考えてよい。全面的解放は遂げられないという無力さが、そして自由になろうとがむしゃらに試みる執拗さが、この迂回路、この体系を通して現れ出る。
 クレオール語り部は、この逆説的な位相の見事な例である。主人は、彼が語っているということを知っている。彼が語っているということを、容認している。時には、彼が語る話を聞いてさえ、いる。彼の言葉はしたがって、不透明で遠回しであることを義務とする。巫女シビラの言葉のように千の破片となって、遮断されながらも回りこんで意味を形成することを義務とする。彼の語りは、風刺という脱線、性を語る脱線、時にはわかる者にしかわからない長い脱線の上を旋回する。彼と聴衆の応酬は途切れることなくつづき、擬態語擬音語や効果音の発声が、これにリズムを与える。聴衆の注意をそらさないこと、そして同時に、彼の語りからどう見ても危険な要素を取り去ること、この二つが、こうした発声の狙いである。そしてこの点においても、エドゥアール・グリッサンの指摘は正しい。彼は言う、語り手のもくろみは、ほとんど、見せながら見せないことである。声が誘う眠り、あるいは語りの神秘の中で、形作り、かつ形作らないことである、と。(11−13頁、太字は原文では傍点)

 こうした言葉は、莫言がスピーチで意図したことにも通じるのかもしれないという気がしてきた。もっとも、その狙いが実際に作品中で達成されているかどうかは、また別に考える必要がある。