スタンダール『赤と黒』

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

赤と黒〈上〉 (岩波文庫)

 
赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

赤と黒〈下〉 (岩波文庫 赤 526-4 9

 

 田舎の貧しい家の生まれで、野心家で気位だけは高い主人公のジュリアンは、人付き合いを好まず空気がうまく読めないため、あちこちで敵を作りながらも、生来の美貌と抜け目なさで上流階級に入り込み出世を果たそうとする。
 彼にとっては毎日が勝つか負けるかの勝負で、少しでも馬脚を現すようなことをしてはならないし、何より人に侮られるようなことがあってはならない。恋愛事件にしても、仕掛けた当初の目的は、相手の女を利用してあるべき自己像を作り上げ、自分で思い込んだ勝ち負けのルールに従って、世間に対して勝利を収めるためだったりする。この点について言えば相手の女も似たようなもので、最初のレナール夫人はまだしも、二人目のマチルドに至っては、親の希望に従って家柄や財産の釣り合う条件のよい相手と結婚するようなほかの娘と違って、自分は男の将来性に賭けることのできる特別な「天才」だと思っており、自分が入れあげるにふさわしい男のイメージをジュリアンに託してしまうところから関係が進展することになる。
 とはいうものの、自分たちで設定した役柄を演じているうちに、次第に演技と本気の区別が曖昧になり、もともとの思惑を超えて本気の恋だと信じこむようになる。さらに始末の悪いことに、ジュリアンは最初のレナール夫人とのロマンスを、寝室に梯子をかけて忍び込むというまさにクライマックスで中断させたまま、パリで次の恋人マチルドと出会い関係を深めてゆくことになるので話がややこしい。
 しかしこのマチルドは、処刑された愛人の首を抱いて馬車に乗り、自ら礼拝堂に埋めに行ったという女王マルグリット・ド・ナヴァールを人生の範と仰いでおり、実際のちにその行動をなぞることで烈女の自己イメージを完成させるのだから、登場人物の中で最も幸せな部類に入りそうだ。ジュリアンにしてもそうだが、追い求めるべき自分の姿というのが随分くっきり描けているようで、しかも手頃なロールモデルがどこかに転がっていて、そういう意味では実に羨ましい。
 ところで、ジュリアンが家庭教師としてレナール家にやって来た場面で、主人のレナール氏が彼の服装を見とがめる台詞がある。

「(…)であなたも上流家庭にはいるのは有利だと、おわかりになったと思うが――さて、ムシュー、子供たちが背広姿のあなたにお会いするのは、どうも感心できない」彼は妻にたずねた。「召使どもはこの方を見なかったかね?」
「いいえ、あなた」と彼女は深く物思わしげに答えた。
「それはよかった。さあこれを着てください」と彼はあっけに取られている若者に自分のフロックコートを一着あたえていった。「さあ、羅紗屋のデュランのところへ行ってこよう」(上・63頁)

 背広姿は労働者であることの表れで、上流家庭の家庭教師としては長いフロックコートで正装せねばならないということなのだろうが、ちょっと魯迅の『孔乙己』の記述を連想した。

做工的人,傍午傍晚散了工,每每花四文铜钱,买一碗酒,――这是二十多年前的事,现在每碗要涨到十文,――靠柜外站着,热热的喝了休息;倘肯多花一文,便可以买一碟盐煮笋,或者茴香豆,做下酒物了,如果出到十几文,那就能买一样荤菜,但这些顾客,多是短衣帮,大抵没有这样阔绰。只有穿长衫的,才踱进店面隔壁的房子里,要酒要菜,慢慢地坐喝。

 “短衣帮”である労働者たちはカウンターで立ち飲み、“穿長衫的”つまり長衣をまとった読書人たちは金があり奥のテーブル席につける、ということになる。労働者の着る短い上着と、上流階級の者がまとう長い上着という対比は、フランスにおいても当時の中国と似たようなものであったのか。

怠けものの話 (ちくま文学の森)

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