イヴ・セジウィック『クローゼットの認識論―セクシュアリティの20世紀』

クローゼットの認識論 ―セクシュアリティの20世紀― 新装版

クローゼットの認識論 ―セクシュアリティの20世紀― 新装版

サッカレーの独身者が、私の提案するように、ホモセクシュアル・パニックの締めつけに対する一つの可能な応答の道を、性格タイプとして創造した、または再度刻み込んだとするならば、彼らの基本的戦略をたどることは十分容易である。まずは核家族よりも原子化=分離化された男性の個人主義を選ぶこと(そしてそれと対応するように女性、特に母親たちを悪者とすること)、男性の対象に向けてだろうが女性の対象に向けてだろうが、性器的セクシュアリティと解釈され得るものいっさいを饒舌にまた目立って拒否すること、それと対応してセクシュアリティ以外の感覚の快楽を強調すること、そしてパロディと予測し難いサディズムになりがちなそのような快楽の強調に相当な魅力を与えるだけの、十分防御された社交的器用さがあること、である。
 これがもっぱらヴィクトリア朝の人間タイプだけにあてはまる類型とは思えないと言わなければならない。性的選択が男性にとって義務であると同時に常に自己矛盾であるような社会で性的選択を拒否するときには、少なくとも教育を受けている男性には今でも、しばしばこの一九世紀のペルソナの先例に訴えるようだ。

(「クローゼットの野獣」、278頁)

 「ホモセクシュアル・パニック」に対する応答とはまた別の文脈であるにせよ、ヘテロセクシュアリティ(あるいは恋愛至上主義にもあてはまるか)による暴力をかわすにはこういう戦略はまさに今でも有効だろう。「草食系」あるいは「負け犬」というのは実はサッカレー型の独身者(バチェラー)の末裔であるのかもしれない。