アニーシュ・チャガンティ『RUN/ラン』(Run、2020)

 ダイアン(サラ・ポールソン)は娘のクロエ(キーラ・アレン)と二人暮らし。複数の疾患を抱えて車椅子生活のクロエは、工学に関心を持ち、ホームスクーリングで学びながら大学の合格通知を心待ちにしている。

 保護者の集いでは、子供の自立に際して涙ながらに不安を訴える母親たちとは対称的に、ダイアンは「クロエに関しては何も心配していない」と平然と言い放つ。

 娘の薬の処方箋は母が管理し、あらかじめ一日分ずつピルケースに分類された錠剤をクロエは言われるままに飲むだけ。かなり早い段階で、「処方が変わったから」とおかしな薬を飲ませようとしていることが判明する。こういうことがあるので、日本では処方薬は瓶ではなく、一錠ずつ薬剤名称がわかるシート包装になっているのかとようやく理解した。その疑いが確信に変わり、タイトルの通り母の束縛から逃れ出るまでのサスペンス。

RUN/ラン(字幕版)

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 医療虐待の話だが、巧妙に仕組まれており、娘も自分の体に現れる症状は先天性の疾患によるものだと思い込んでいる。母娘二人の規則正しく幸福な日常のように見えるが、受診の場面はないし、オンラインによる授業を受けているわけでもなく、インターネットを使えるのは母の監視下のみで、友人どころか母以外の他人と接触する機会はほとんどない。クロエは次第に、母の行動は愛情ゆえではなく、自分の世界の中に娘を閉じ込めておきたいからだと察するようになる。

 携帯もネットもなく、近所付き合いというほど住宅が密集した地域でもなく、車に乗らなければどこにも行けない。こうした環境で携帯もなくインターネットへのアクセスも制限され、物心ついた時からずっと母と二人でいたら、母から逃げるということなんて思いつきすらしないのではという気もするが、クロエは母に薬物を注射されて意識を失っている間に部屋に監禁されたことで、逃げなければならないと理解する。

 クロエと同様、演じるキーラ・アレンも車椅子ユーザーだそうで、体になじんだスムーズな動きがカメラワークにもスピード感をもたらす。車椅子を離れて、窓から屋根づたいに脱出するアクションシーンも盛りこまれている。

 あまり心臓によい映画ではないが、自分に依存せずには生きられない存在を必要とするという心理自体は理解不能でもない。ここに性的なものとは無縁で無垢な子供であってほしいという願望が加わると、かなりおぞましさが増すが、月経のコントロールのような描写はないのが救いか。

 娘を囲い込もうとする恐ろしい母親からは『ブラック・スワン』を連想するが、本作ではさらにもう一ひねり出生そのものの秘密が加えられる。結末を明かしてしまうと、七年後にはクロエは義肢装具士として働いているらしく、結婚しており、歩き始めた子供もいる様子。母と二人の生活では味わったことのない、祖父母と孫の団欒(自分の生みの親なのか、夫の父母なのかは不明)について楽しげに語る。大学では集団生活や人間関係に問題は感じなかったのかという部分は若干気になるが、そこはすべて飛ばして、仕事と家庭といういわゆる幸福の象徴を母の助けなしにすべて手に入れたことになっている。母はというと、生き延びはしたものの、かつてクロエに対して行ったのと同様の手段で、徐々に身体の自由を奪われ復讐されるという後味のよくない結末。