セバスティアン・レリオ『聖なる証』(The Wonder、2022)

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ジャガイモ飢饉の痛ましい記憶が去らない1862年アイルランドの農村。英国から看護婦(フローレンス・ピュー)が呼ばれ、ある奇蹟の証人となるべく二週間にわたり一人の少女を観察するように依頼される。

少女アナは11歳の誕生日かつ初めての聖体拝領の日から、一切の食物を口にせず、水と神に与えられた「マナ」のみで生きている。隠れて食べているに違いないと考えた看護婦は、家族との接触を禁じるのだが……

撮影スタジオからセットにパンして「物語」が始まり、またセットからスタジオにパンして終わるメタ的仕掛け。少女がものを食べている形跡がないかを探ろうとする看護婦も、食事する姿を宿屋の娘たちから凝視され観察される。観察する側とされる側は常に入れ替わる。やがてアナが生きている「物語」が明らかにされるが、そこには奇蹟を創造しようとした神父らによる物語ではなく、もっと恐ろしい秘密が潜んでいた。(少女は9歳の時に繰り返し兄から強姦され、それから間もなく兄が病死したのを自分のせいだと思っている。兄を地獄の業火から救うため、断食中に33回の祈りを捧げようとしている)

真っ向から虚妄の物語を打ち壊すことが無理なら、それぞれの物語に辻褄を合わせればよい。看護婦自身も、生まれて間もない娘を亡くし、同時に夫を失って天涯孤独の身だが、その自分を葬って新しい「物語」を生き直すことを選ぶ。(餓死寸前で朦朧とした少女に、アナが死んであなたが生き返るのはどうかと持ちかけ、アナとして眠らせ、新しく生まれ変わったナンとして呼び覚ます。泉の傍らに置いた彼女を、恋人となった地元出身の新聞記者に救うよう依頼し、馬で脱出させる。8時59分に彼女が死んだと記録し、ミサで家中から留守の間に火を放ち、亡骸が消えたことにする)

看護婦と交代で少女の観察を行った修道女は、最後に自分の見た光景を「物語」の用語で語り直し、看護婦の物語と自分の物語、教会の物語が重なりながらも互いに保たれたことを証す。(シスターは「天使が馬でナンを連れて行くのを見た」と語る)

宿屋から村はずれの少女の家まで、繰り返し歩いて通うヒースの野原が美しい。不毛の代名詞のような原野も映像で眺める分には美しく、他人の物語もよそごとに見る分には、餓死した少女を奇蹟の証と見て感涙にむせぶくらいには感動するかもしれない。